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 警告すべきだろう。このテーマは危険である。
 
 何しろ世の一神教の神の相当数は「全知全能」をキャッチフレーズにしており、キリスト教及び回教といったメジャーな一神教もその例外ではない。そのメジャーな神様のキャッチコピーに私は異を唱えようとしている。即ち、「たとえ神と言う超越的存在であっても全知にして全能と言うのは相当無理がある。」と。
 
 これは一神教の一枚看板とは言わないまでも金看板に泥を塗る行為と言え、一神教徒の側からすれば、怒るのも無理はないとは言わないが、理解できる。かてて加えて私自身は逆立ちしたって一神教徒ではなく、一神教徒の側からすると正真正銘掛け値なしの異教徒だ。唯一絶対神を信仰する一神教の立場からすると、異教徒は、悪魔崇拝者と同義語になる。
 無論例外はある。一神教として比較的新しい回教は、一神教の先輩であるキリスト教他を「経典の民」として準信徒として扱う事があるし、異教徒だからって目くじら立てる一神教徒ばかりでは(幸いな事に)ないことは承知している。
 が、原理的には「私(唯一絶対神)以外の者を神と崇めていけない。」とする一神教は、他の神を一切認めないから、その一神教徒以外は他の一神教徒を含めて(*1)異教徒=悪魔崇拝者=神に背く者 だ。回教にしろキリスト教にしろ、原理主義と言うのが困った事になるのは正にその異教徒排撃の故であるが、異教徒排撃こそ一神教の原理なのだから、これは存在理由に直結した問題であり、原理主義の業といえよう。
 
 前振りが長くなったが、一神教の唯一絶対神に対しその全知全能性に疑義を呈することは、その一神教の原理主義者に敵視される公算が大であり、それを敢えてなそうと言う当記事にコメントなりトラバなりの関与を示す事は、その原理主義者の敵視を受ける可能性があることを予めお断りしておこう。
 
 何しろ「悪魔の詩」とタイトルは仰々しいが中身はカフカの「変身」と大同小異の小説を発表しただけで、聖戦の対象に祭り上げられて死刑宣告をされてしまうことさえあるのだから、全く原理主義と言うやつは始末に悪い。

<注釈>
(*1)むしろ、他の一神教徒であればなおの事。


1.全知にして全能ならば何ができるか?

 私は当然ながら「Memento mori(*1)」と囁かれるまでもなく定命の者であり、法王でも共産党書記長でもないので無謬とも無縁な誤り多き人間にしか過ぎない。従って「全知にして全能」などと言う一神教の唯一絶対神らの境地は想像を絶するものがあるのだが、そこをあえて想像する事は思考の水平線を広げる効果が期待できよう。
 
 まず「全知」だけでも大した事と言わねばなるまい。この世のありとあらゆる事、それはこの太陽系第3惑星・地球の表面にひしめく我ら人類の家庭不和から超新星の爆発まで、全宇宙の森羅万象を現状はおろか過去から未来永劫に渡って既に「知っている」と言うだけでも途轍もない事である。
 無論、神と言う超越的存在ならば、途轍もないのは当たり前であるが、その神がさらに「全能」なのだとすると、それこそ「なでんもできてしまう。」と言う状態になる。
 因果律も物理法則も万有引力も質量保存も全く無視できるのが「全能」の筈であり、だからこそ死者を蘇らせたり、食物の雨を降らしたり、水の上を沈むことなく歩かせたり、人や物を空中に浮き上がらせたり、海を割って海底の道を開けさせたりできるのだろう。
 だが、かような「全能」は滅多に行使されない。滅多に行使されないからこそ、それが行使された場合は「奇蹟」として珍しがられる。
 殆どの場合因果律も物理法則も破られる事はないからこそ、物理学者は物理を追求する事ができるし、それを応用して「神がその全能を行使しない限りこう動く筈」と期待できる各種の仕掛けなりプラントなりを作ることができる。それらが普通動くからこそ現代生活、現代社会が成り立っているのだから、唯一絶対の全知全能神は、少なくとも一度決めたルール(物理放送、化学法則、因果律)を滅多に破る事がない律義者であり、そのルールを破る奇蹟は滅多に起こさないから、全能性を発揮する事は殆どないと言う事になる。
 世界中には食料にさえ事欠く人が相当数あり、その相当部分は全知全能の唯一絶対神を信仰しているが、彼らの上に「子供手当て」や「所得保障」の如く食料の雨が降ってくることは、滅多にない。
 
 なんだか日本の集団的自衛権みたいな話だな。全知全能神の全能性。

<注釈>
(*1)「忘るなかれ、汝死すべき運命なることを。」と言うラテン語。私の知る数少ないラテン語だ。


2.両雄並び立たず―複数の全知全能神は一般的に相反する―

 この世に戦争のねたはゴマンとある。資源、食料、水資源、市場、技術、イデオロギー・・・資源としては長い人気を誇る金や銀もさることながら、現代になってからの石油やウラン、レアメタルと言った地下資源もあれば、胡椒や絹が重視された時代もある。食料や水は何時の時代にも死活問題だが、分けても厄介な戦争のねたが宗教と民族である。
 宗教的対立と民族的対立はニアリーイコールである場合も多いが、まず第一に何しろこの戦争ねたは息が長い。資源は時代背景がある。今絹や胡椒をめぐって戦争を仕掛ける奴は居ない。イデオロギー的対立も戦争を凄惨なものにするが、イデオロギーは宗教や民族ほど長生きしない。共産主義は殆ど20世紀限りの現象であったし、資本主義が老舗と言っても回教にさえも遠く及ばない。これに対し宗教的対立や民族的対立は下手すると1000年以上続く上に、相手が異教徒・異民族と言う「まつろわぬ者」であるだけに、戦争・戦闘そのものを凄惨なものにする。敵や敵国民を殺せば殺すだけ天国に近づいてしまったりするから、全く始末が悪い。
 
 その中でも始末が悪いのは、一神教同士の宗教的対立である。これは時に、同じ「キリスト教」同士であってもとんでもないことになる。伝統的なカトリックに対しプロテスタントが台頭した頃欧州に吹き荒れた宗教改革=宗教戦争の嵐は、所によっては人口を1/3へ激減させるだけの被害を生じた。勿論2/3がみんな死んだわけではなく、他の地域へ逃げ出した分も含めてだろうが。
 
 一神教同士は、宗教や、時に派閥が違うだけで、とんでもなく仲が悪くなるのだ。

 さて、またしても前置きが長くなったが、宗教戦争の話はなく、神の全知全能性の話をしていたのだ。が、前述の通り一神教の神の相当数は全知全能を標榜している。宗派によって違いはあるかもしれないが、キリスト教もそうだし回教もそうだしユダヤ教もそうだ。
 そしてキリスト教と回教とユダヤ教の関係は・・・良好であるところ、良好である時代もないではないが、基本的には対立基調だ。少なくともこれら全知全能を誇る一神教同士の間には、対立する問題が存在する。
 その対立する問題の存在は、それぞれの一神教の全知全能である筈の唯一絶対神がその全能を行使して解決していない、或いは解決できない事を意味する。
 
 解決できない問題があるようでは、「全能」の看板は下ろさねばなるまい。
 
 勿論、その対立する課題を、「神が人間に解決を任せた試練であり、神がその全能を行使して解決しないのは神の御意思だ。」とする解釈も成り立つ。
 が、対立する一神教のそれぞれの唯一絶対神同士が揃いも揃って解決を人間に任せると言うのは神の全能性に疑義を持たせるのに充分であるし、唯一絶対神同士の「談合」さえ想像させる。
 そうでなくてもお互いがお互いに有利な解決をそれぞれの「全能」を行使して図ったら、一体何が起こるか、思考実験するのも無駄ではないだろう。
 
 左様、古代中国の「矛盾」の故事そのままである。
 対立する一神教同士の、それぞれの唯一絶対神のうち、真に「全能」たり得るのはたった一柱である。

「全知全能にゃ無理がある2」http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/30480325.html