日本人という民族は、古くは(多分)マルコ・ポーロの東方見聞録で「黄金の国ジパング」として有名になり、19世紀末から20世紀にかけて世界史(※1)上で大ブレーク(※2)し、今も相応に有名だ。有名なだけに、日本人の蔑称と言うのも色々ある。
 日本人が草履や下駄の鼻緒に合わせて履く足袋が二股である事から、朝鮮では偶蹄類を意味する「ジョッパリ」と言う蔑称を使うそうだ。奇蹄類(※3)の方が偶蹄類より偉いとも思えないのだが、差異を強調するのが差別化の第一歩だから、鼻緒が珍しいのだろう。
 「島国根性」というのも朝鮮では使うらしい。「大陸のような気宇壮大さが無い、せせこましい、せわしない。」と言った意味がこめられているらしい。大陸の尻尾である事を喜ぶ属国根性より余程良いとか、面積で世界最大の墓・仁徳天皇陵、世界最大の金属仏像・奈良の大仏、人類史上最重の戦艦・大和級など言いたい事は色々あるが、これまた日本人に対する蔑称のひとつと言う事は認めざるを得ないだろう。
 
 英語ではJap(ジャップ)と言うのがあるし、大戦中にはHalf Man(ハーフマン)何て呼び方もあったらしい。半人類とか半人前とか言いたいのだろう。(※4)
 
 あれやこれやの日本人に対する蔑称の中で、比較的メジャーなのが「猿」あるいは「黄色い猿」であろう。ロシア皇帝なんざ公式文書に「猿(マカーキ)」と記したそうだから、ロシア帝国御用達の蔑称だ。「物真似上手、真似するだけで創造性が無い。」と言う意味がこめられているのだろう。
 
 「真似る」のだって相応に準備・仕込みが要るし、「真似る」は「学ぶ」の語源ともされるから、真似るのだって誰にでも簡単にできるわけではないが、日本人の「真似る」は単にデッドコピーや紛い物を作るのには留まりませんぜ。余り舐めなさんな、と言うのが今回の御題。
 
 取り上げるのは「日本語の文字」である。

<注釈>
(※1)それは多くの場合、「西欧史」なのだが。コロンブスの「新大陸発見」なんかその典型だろう。
(※2)それも、人類史上希に見るほどに。こいつも追々記事にしよう。
(※3)指を一種のひづめの割れ方と考えると、5本指の人間は「奇蹄類」と言えない事もない。
(※4)竹中半兵衛重治ってぇお方を知らねぇな。名が「半分」だってあれだけの事が為せるんだぜ。


1 文字の輸入「漢字」-万葉仮名ー

 「一書に曰く-日本書紀に見る異説寛容-」にも記したとおり、日本と言う国(※1)の歴史は文字による記録より以前に遡ってしまう。それ故に「日本の歴史」は口伝・伝承から始まり、歴史には民族独自の物語と言う側面もあるから、勢い伝承は神話・伝説に到達する。大昔の事を「神代の昔」と表現できてしまって掛け値が無いのが日本の歴史であるが、逆に言えば「文字としての記録が始まるのが遅かった。」とも言える。
 じゃあ古代日本人は文字も持たない野蛮人だったのか(※2)、と言うと私には到底そうは思われない。
 と言うのも後述する通り、文字を大陸から輸入した後も、日本語と言う言語は強力なバックボーンをなして今日に至っており、これは日本に文字が輸入された時点で確固たる言語文化が(話し言葉のみによる。文字による記録が無いので物的証拠は無いが。)築かれていたと考えない事には説明がつかない(※3)からである。
 
 話が前後するが、日本に文字が入ってきたのは大陸から。入ってきたのは当然「漢字」である。
 漢字と言うのも相当影響力のある文化で、大陸を発祥として周辺に伝播し、いくつもの亜流文字を生じさせたが殆どの亜流文字は残らず、そんな中で漢字のみが生き残って20世紀まで頑張っていた。象形文字から発した表意文字の中でも特に複雑で、数千字程度どころか数万字に及ぶその複雑さは、支配階級にとって何かと都合の良い文字ではあったようだが、日本には「漢字」そのままでは入らなかった。
 
 万葉仮名と呼ばれる最古の日本文字は、表意文字である漢字を表音文字として使い、なおかつ50音に対してそれ以上の文字数を使うと言う、いささか変則的な輸入をした。
 
 話し言葉としての日本語が確固としてあり、新たに大陸の文字=漢字と共に大陸の言語を輸入する必要が無かったから、と考えるのが自然であろう。
 
 さらに、輸入したての文字・漢字を使って我らの先祖・古代日本人がなしたことは、ひとつは口伝・伝承による歴史の整理であり、もう一つは歌集を編む事であった。日本最古の和歌集・万葉集には、貴族・皇族の和歌も入ってはいるが、身分の高低を問わず多くの歌が収められている。
 
 つまり、古代日本人は、大陸から輸入した文字を、表音文字に「変換」した上で、歴史書とほぼ同時に文学集を編み始めている。
 話し言葉による文学が確固としてあり、それもかなり広範に普及していた、と考えざるを得ない。
 
 無論、当時の和歌を単なる文学とは考えるべきではないだろう。それは鬼神(※4)や山河に呼びかける祈りであり、呪文でさえありうる宗教的側面を無視しては、万民の和歌を集積した「万葉集」と言う日本文明の一大モニュメントを、理解できないだろう。

<注釈>
(※1)と言って語弊があるなら日本人と言う民族
(※2)「文字を持たない以上は野蛮人に決まっている。」と断言してしまうお方もあろうが。
(※3)或いは古代日本人が言語に関して天才的な能力を持った者揃いであったか。こちらが本当ならば「優等人種」と言う言葉は日本人のためにある事になる。
(※4)仏はもう一寸待たないと入ってこない。


2 表音文字の抽出-「仮名」-

 万葉仮名は表意文字である漢字を表音文字に「変換」して利用した例だ。
 だが、表意文字としてはいささか不便なのは、万葉仮名が解読するのに骨が折れる事からも明らかだろう。「ならば、表音文字を作ってしまえ。」と誰かが考えたのか知らないが、「もっと簡単に書ける表音文字が欲しい。」ぐらいは思った事だろう。それで万葉仮名に使っていた漢字の一部を取り出して片仮名を、漢字を崩して書いた形から平仮名を、古代日本人は作り出した。
 ここに表意文字の漢字は、完全に表音文字に「変換」されてしまった事になる。
 
 ところが、である。話し言葉としての日本語には、昔も今も同音異義語が多い。「箸」と「橋」は方言によってイントネーションが逆になるし、「端」も「嘴」も「はし」である。「江戸っ子は「し」と「ひ」の区別がつかないから、渋谷と日比谷がごっちゃになる。」と言うのは同音異義語とは違うが、発音が似ているからこその混乱であろう。
 
 であればこそ、古代日本人は平仮名・片仮名という独自の文字を編み出しながら、それだけに頼ると言う事を基本的にはせず、大陸渡来の漢字を混ぜて使い続けた。


3 強固なり日本語-訓読み・レ点-

 さて、漢字・平仮名・片仮名と日本語の主要な文字(※1)が揃ったから、話はおしまいかと言うとさにあらず。
 
 先述の通り古代日本人は万葉仮名を使う事で漢字を表意文字ならず表音文字として利用する一方で、漢字が表意文字であるという正にその事を利用して、「漢字を日本語」にしてしまったのである。
 
 諸兄御承知の通り、日本の漢字には通常2通り以上の読み方がある。「音読み」と「訓読み」である。このうち「音読み」は漢字導入当初の大陸の発音(或いはその類似音)であったのだろうが、漢字が表意文字、即ち意味を持つ字であるのを良い事に、これを「日本語読みしてしまう。」と言う離れ業を古代日本人はやってのけた。それが「訓読み」である。
 例えば「火」と言う字は「か」とも読む。「火力(かりょく)」「火勢(かせい)」等に使うが、訓読みでは(多分)大和言葉である「ひ」と読んでしまう。大陸の言語を表す漢字を、意味があるのを良い事に、日本語に使ってしまったのである。
 
 英語を考えてみればこれがいかに独創的かがもう少し明らかになる。英語で「火」として一般的なのは「Fire」であるが、「Fireを放て!」と書いて「ひをはなて!」と読んでしまう様なものである。「普通はそんな事はしない。」と言う意味でも、極めて独創的といえよう。
 
 そればかりではない。諸兄御承知の通り古典の一環に「漢文」と言うものがある。漢文の一部は基の古代中国語のまま、漢字のみの「白文」を読むが、古代日本人はこれに読む順番を示す「返り点」とか「レ点(※2)」とか呼ばれる一種の順番記号や送り仮名を加えて、大陸の言葉で、大陸の文字=漢字で書かれた「漢文」を、日本語に「読み下す」と言う離れ業をも編み出した。
 おかげで私のような中国語の発音はサッパリ判らない者でも、正字(※3)の漢字で書かれた白文なら、大よその意味を取る事ができる。
 
 古代日本人に、かかる独創的な離れ業をいくつも可能としたのは、日本語と言う言語が、それまで文字の無い話し言葉だけの言語が、深く日本人に根ざしていたからである。と言うのは仮説にしかならないが(何しろ物的証拠が無い)私は、相当な自信を持って断言できてしまう。

<注釈>
(※1)残っているのはアルファベットとアラビア数字だ。
(※2)1文字だけ戻るレ点。数文字を戻る漢数字、それを挟む上・中・下点。更にそれをはさむ天・地点。懐かしいね。
(※3)簡字体ではない


4 青は藍より出でて、藍より青し

 日本人の「漢字日本語化」はそれだけに留まらない。諸兄御承知の通り、漢字の中にはいくつかの部首の組合せでできているものがある。先述の「火」を二つ重ねた「炎」は「えん」とか「ほのお」とか読み、火の一形態を指す。これを利用して日本人は、大陸には無い漢字「国字」と言うものを作り上げてしまう。「峠(とうげ)」等はその例で、「山」「上」「下」の3つの漢字の組合せが、見事にその意味を表している。

 「自家薬籠中の物とする。」とは正にこの事だ。
 
 さらには、19世紀から20世紀にかけて西欧列強が極東侵略にやって来ると、これに対抗してその文明を学び、西洋物質文明の用語を「尽く(ことごとく)」と言って良いほど徹底的に漢語訳したのも日本の功績であろう。一例を挙げれば「物理」「化学」「鉄道」などである。
 中国語でテレビの事を「電視(※1)」と言うのは中国語だが、「朝鮮民主主義人民共和国」の「民主主義」も「人民」も「共和国」も日本語であるし(※2)、「中華人民共和国」でも同じであるから、中国の正式国名のうち、中国語であるのは「中華」だけ、と言うことになる。
 
 それはさておき、
 ここまでお付き合いいただけた読者諸兄には、本章の章題が意味するところは明らかだろう。漢字は、もともと大陸の言葉「中国語」の文字であった。が、それを「日本語」の文字として吸収し、種々の外来語を「漢訳」して今日に至る日本人は、その漢字使用能力に於いて、本家の筈の大陸を凌駕している。
 
 況や「形が簡単だから覚えやすい」として簡字体なるみょうちくりんな文字を捻くり出して過去の文学的・歴史的遺産との断絶を生じさせた上、更に新たな簡字体をNew Speakとして通用させようと言う「中華人民共和国」何ぞに、漢字文化を、漢字の歴史を、語る資格は無い。
 
 故に、本記事のタイトルに戻る。
 日本人の真似は、ただコピーをする猿真似ではない。
 真似て、学んで、応用し、自らの物として吸収する、人真似である。


<注釈>
(※1)今の支邦は簡字体を使うから、こうは書かない。
(※2)つまり、核実験をやってみたり、弾道ミサイルを撃ってみたり、恫喝をかけてみたりして居る北朝鮮は、何のことは無い日本語を使わなければその正式な国名さえ記述できない国、という訳だ。