報じられているのは、「中国北西部、チベット人の暮らす村」で村人数百人が警察署を襲撃するという事件が起き、「チベット仏教の僧侶ら90人以上が逮捕されるか自首した」と言うもの。
警察署襲撃と言えばフランス革命ののろし「バスチーユ監獄襲撃」を想起させ、反政府反乱の勃発(※1)或いは革命か、とも思われるが、新華社の伝える報道は「容疑者6人を逮捕し、89人が自首した。」と言うから、警察はただ襲撃されただけでろくに捜査も行わない内に自首出頭者が続出しているらしい。
さらにこれら逮捕及び自首した95人の内、実に「93人が、襲撃現場の付近にあるRabgya僧院の僧侶だった」と言うから、僧侶でない者はわずかに2名だ。
「これぞ中国共産党支配の御威光の致す処」と「党の喉舌」たる新華社通信としては主張したいところであろうが、今や五十六にも上る少数民族はおろか身内の漢民族に対してさえ(※2)経済成長率8%を担保としないと求心力が失せる中国共産党支配が、異民族たるチベット人やましてや共産主義者ならぬ仏教徒に通用する筈がない。
ならばこの坊さんたちの大量自首は一体何を意味するのか?
一つには当たり前だが、今回の警察署襲撃した村人数百人に相当数のチベット仏教僧侶、つまり坊さんが加わっていたと言うことだ。「組織的背景」を考えるならば、坊さんが先頭に立って襲撃したとも考えられる。
仏教徒というのは一般に穏健派な平和主義者というイメージがある。おおむねそのイメージは間違っていないし、チベット仏教はその格好な例ではあろうが、我が国の歴史にも一向一揆や僧兵何て者があったことを想起すると、平和的な宗教といえども存亡の危機に立たされれば、窮鼠猫を噛み、武力を以って立ち向かうこともあることを知るべきだ。
即ち、今回の警察署襲撃は、そうした防衛行動であったことを示唆しているように思われる。
それだけチベット仏教が危地に立たされているか、或いは中国共産党支配が揺らぎ始めていることを示すのかもしれない。
二つには、数百人が警察署を襲撃したのに対し、検挙者は95人で内93人が僧侶という非僧侶率の低さと襲撃者の数からして、警察襲撃に加わった僧侶でない者は大半検挙されていないと推定される。これに対し坊さんは大量に(少なくとも93-6=87人は)自首している事から、「チベット僧侶が、警察署襲撃に加わった非僧侶を庇って大量自首した。」と言う可能性が示唆されている。
「坊さんなんだから捕まっても大した目には遭うまい。」などと多寡を括っている人があれば認識を改められたい。人は正義の名の下で最も残酷になる者であり、共産党一党支配の中国及び中国軍にとっては共産主義=無神論が正義だ。「宗教は民族の阿片である。」とご本尊がのたもうてしまう共産党支配下で、宗教家がいかなる目に遭うかを想像されたい。
ましてや、今回の警察署襲撃は、共産党支配に対する反抗。そのかどで逮捕された僧侶の処遇は、どう見ても尋常一様にはなりそうにない。
その危険を冒してまで、大量の僧侶たちが自首をし、警察襲撃に加わった僧侶でない者を庇っているのだとしたら?
その理由を私は知りたい。
それはひょっとしたら、チベット独立という、明日への希望なのだろうか。
無論、チベット仏教の大本締めダライ・ラマ14世は、未だ中道政策を説き、中国政府に対して求めるのはあくまでも「高度な自治」としている。しかしながら、高度な自治を求めて虚しい中国共産党政府との戦いを強いられているダライ・ラマ14世も堪忍袋の緒が切れかかっているのか時には中国政府を非難している。(ダライ・ラマ、中国政府を非難 チベット動乱50年 http://www.afpbb.com/article/politics/2580351/3899433 )
これは、チベット独立推進派(※3)にとっては、一つの朗報ではなかろうか。
<注釈>
(※1)最近の中国じゃ、日常茶飯事らしいが。
(※2)否むしろ、身内の漢民族であるからこそ、か。支那大陸の多くの「帝国」は、漢族以外の「少数民族」が支配している。
(※3)中国共産党の言う分離主義者、か。
警察署襲撃と言えばフランス革命ののろし「バスチーユ監獄襲撃」を想起させ、反政府反乱の勃発(※1)或いは革命か、とも思われるが、新華社の伝える報道は「容疑者6人を逮捕し、89人が自首した。」と言うから、警察はただ襲撃されただけでろくに捜査も行わない内に自首出頭者が続出しているらしい。
さらにこれら逮捕及び自首した95人の内、実に「93人が、襲撃現場の付近にあるRabgya僧院の僧侶だった」と言うから、僧侶でない者はわずかに2名だ。
「これぞ中国共産党支配の御威光の致す処」と「党の喉舌」たる新華社通信としては主張したいところであろうが、今や五十六にも上る少数民族はおろか身内の漢民族に対してさえ(※2)経済成長率8%を担保としないと求心力が失せる中国共産党支配が、異民族たるチベット人やましてや共産主義者ならぬ仏教徒に通用する筈がない。
ならばこの坊さんたちの大量自首は一体何を意味するのか?
一つには当たり前だが、今回の警察署襲撃した村人数百人に相当数のチベット仏教僧侶、つまり坊さんが加わっていたと言うことだ。「組織的背景」を考えるならば、坊さんが先頭に立って襲撃したとも考えられる。
仏教徒というのは一般に穏健派な平和主義者というイメージがある。おおむねそのイメージは間違っていないし、チベット仏教はその格好な例ではあろうが、我が国の歴史にも一向一揆や僧兵何て者があったことを想起すると、平和的な宗教といえども存亡の危機に立たされれば、窮鼠猫を噛み、武力を以って立ち向かうこともあることを知るべきだ。
即ち、今回の警察署襲撃は、そうした防衛行動であったことを示唆しているように思われる。
それだけチベット仏教が危地に立たされているか、或いは中国共産党支配が揺らぎ始めていることを示すのかもしれない。
二つには、数百人が警察署を襲撃したのに対し、検挙者は95人で内93人が僧侶という非僧侶率の低さと襲撃者の数からして、警察襲撃に加わった僧侶でない者は大半検挙されていないと推定される。これに対し坊さんは大量に(少なくとも93-6=87人は)自首している事から、「チベット僧侶が、警察署襲撃に加わった非僧侶を庇って大量自首した。」と言う可能性が示唆されている。
「坊さんなんだから捕まっても大した目には遭うまい。」などと多寡を括っている人があれば認識を改められたい。人は正義の名の下で最も残酷になる者であり、共産党一党支配の中国及び中国軍にとっては共産主義=無神論が正義だ。「宗教は民族の阿片である。」とご本尊がのたもうてしまう共産党支配下で、宗教家がいかなる目に遭うかを想像されたい。
ましてや、今回の警察署襲撃は、共産党支配に対する反抗。そのかどで逮捕された僧侶の処遇は、どう見ても尋常一様にはなりそうにない。
その危険を冒してまで、大量の僧侶たちが自首をし、警察襲撃に加わった僧侶でない者を庇っているのだとしたら?
その理由を私は知りたい。
それはひょっとしたら、チベット独立という、明日への希望なのだろうか。
無論、チベット仏教の大本締めダライ・ラマ14世は、未だ中道政策を説き、中国政府に対して求めるのはあくまでも「高度な自治」としている。しかしながら、高度な自治を求めて虚しい中国共産党政府との戦いを強いられているダライ・ラマ14世も堪忍袋の緒が切れかかっているのか時には中国政府を非難している。(ダライ・ラマ、中国政府を非難 チベット動乱50年 http://www.afpbb.com/article/politics/2580351/3899433 )
これは、チベット独立推進派(※3)にとっては、一つの朗報ではなかろうか。
<注釈>
(※1)最近の中国じゃ、日常茶飯事らしいが。
(※2)否むしろ、身内の漢民族であるからこそ、か。支那大陸の多くの「帝国」は、漢族以外の「少数民族」が支配している。
(※3)中国共産党の言う分離主義者、か。