こういう歴史物は古い順に年代を追って記述するのが通例である。「私の歴史観」シリーズが必ずしもそうならないだろう事は十分あり得る、いやきっとそうなるに違いない、が、最初ぐらいはその例に倣おう。
で、日本の歴史を遡っていくと・・・
教科書ならば、ここで縄文時代から話を始め、縄文式土器と弥生式土器の違いやら稲作の開始やら竪穴式住居やらと言う考古学的考察が始まるのだろうが、これは「私の歴史観」だ。歴史には史実の集合体という側面も勿論あるが、民族固有の伝説・物語としての側面も忘れてはなるまい。克てて加えて日本は縄文弥生の長い期間、文字を持たなかったため、歴史が文献として記録されず、口伝として伝承された事もあって、我が国最古の史書である日本書紀も古事記も「神代の昔」即ち神話時代から説き起こしている。
神話は無論のこと史実ではない。それは聖書が史実でないのと同じくらい確かなことだ。が、同時に口伝の集大成として記録された神話は、民族固有の伝説・物語ではあり得る。従って神話は、史実ではなくても歴史たりうる。
少なくとも、私はそう考える。
ことに日本の神話に登場する八百万の神々は、単に数が多いばかりでなく」機を織り、漁をし、失敗もすれば嫉妬もする。「全知全能」等とはほど遠いが、非道く人間くさい、親しみのもてる神々だ。これは神道が布教を目的とした、いわば異教徒に勝つための宗教ではなく、歴史と混然一体化した民族固有の伝説であることに起因しているように思われる。
史実でないことを以って伝説を排撃するのは筋違いだ。伝説はいわば共同幻想であるが、そう言う共同幻想を抱きたいと言う思い、そう言う共同幻想に対する憧れが伝説となるのであるから、伝説には伝説の価値がある。
民族固有の伝説ならば、その民族が何を好み、何を嫌うかが、自ずとその伝説に現れるだろう。
前置きが長くなったが上記のようなわけで、私の歴史観は、遡ると神代の昔にいたり、その始まりは、神話の始まりとなるから、天地開闢のこととなる。
「なりなりて、なり余りたる所あり。」「なりなりて、なり足らざる所あり。」
天地がいかにして出来上がったか、天地開闢とか天地創造というのは多くの神話や宗教にそれぞれ固有のものがある。良く知られている通り、キリスト教の聖書では全知全能の神が僅か7日間(※1)で天の太陽・月・星から陸と海、あらゆる生き物を創って最後に神にの姿に似せて男・アダムを作り、男の肋骨から女・イヴ(※2)を創った事になっている。
中国の伝承ではとてつもない巨人・盤古が死んだときに両の目が太陽と月になり、その肉体が大地、血が海になり、死体にわいたウジが人間になったと言うから、こりゃ白髪三千丈の上を行くスケールと、何とも情けない人間観が伺われる。
さて我が日本の神話というと・・・
はじめは何もない混沌だったそうな。そこへ二柱(※3)の神が登場する。伊弉冉尊(イザナミノミコト)と伊弉諾尊(イザナギノミコト)、女神と男神のカップルだ。この二人が天の御柱と言うところでお互いに声を掛け合って、「成り成りて成り余りたる処あり。」と男神が言えば、「成り成りて、成り足らざる処あり。」女神が言い、ならば「成り余りたる処」で「成り足らざる処」」を補えば都合が良いではないかと・・・婉曲表現だが、早い話がセックスシーンだ。(さすがにベットシーンとは表現しにくい。ベットじゃないだろうし。)
で、理の当然の結果として子供が出来るのだが、水蛭子と呼ばれるこの子共、骨もなくてグニャグニャしていて、箸にも棒にもかかりそうにないので船に乗せて流してしまう。
男神も女神も立派なのに、こんな子供が出来るのは何故だろうと、お伺いを立てると、最初に声を掛け合ったときに、女神の方から声をかけたのがいけないと言うお告げ。そこで改めて、今度は男神の方から声をかけてから事に及ぶと、今度は成功。島々を初めとする立派な神々が次々生まれたと言う。
日本神話の言う天地開闢の故事。またの名を「国産みの故事」と言う。女神が国土を産んでしまうのだから、国土もまた一柱の神。「八百万の神」と数が多いのも道理だろう。
<注釈>
(※1)全知全能なんだから、1瞬で創っても良さそうなものだが。
(※2)と言うことは、厳密に言うと「女は人間ではない。」と言うことになる。あなおそろしや。
(※3)神様は通常一柱、二柱と「柱」で数える。一神教なら単数形だけで数え方は要らないのだろうが。
1. 神話対ジェンダーフリー -勝負にならない-
さて先述の天地開闢の神話が意味するところは何であろうか。
ひとつには、神は人間と同様男と女があり、セックスをして子供を作ると言う、生物学的原則に基づいていると言うことだろう。
何が何だか良くわからないが、必殺技「全知全能」でこの世を創造してしまうキリスト教の神や、セックスもするし子供も作るが、神同士よりも人間にちょっかい出して半神や英雄産み出す方に熱心な(様に見える)ギリシャ神話の神々よりも、遙かに人間に臭い。
まあ、その後神様の孫がこの世に降りてきて、天皇家の祖先になってしまう「天孫降臨の故事」があるから、余り無茶な神様には出来なかった、とも考え得るが、権威を高めるだけならば、「先祖の神」には如何様にも法螺を吹けそうなもの。天地創造だろうと水上歩行だろうと自在の筈だが、そうしなかったのは、やはり当時の口伝から「そう言う伝説が伝えられていた」とは見て間違いないだろう。
昨今流行の「ジェンダーフリー」なる立場からすると、日本神話・国産みの故事は「性差別助長する」と糾弾されるかも知れない。「成り成りて成り余りたる処あり。」「成り成りて、成り足らざる処あり。」と男女の性差を肯定しているし、「女の方から声をかけたら子作りに失敗して、男の方から声をかけたら成功した。」と言うのは女性差別と言われかねない。(※1)
しかし「性差別」なんて言葉もなかった頃の物語が、「性差別を助長する」のは当たり前だ。その物語を創造した者も、継承した者も、「性差別はいけない」なんてかけらも考えなかった(※2)であろうから。
逆にそんな古い物語が性差別排撃をうたっていたら、ピラミッドの中でジェット機の模型(らしきもの)を発見するような「オーパーツ」並の奇貨だろう。
奇貨は奇貨として尊重すべきかも知れないが、奇貨でないからと非難すべき筋合いはない。
従って国産みの故事を性差別助長として糾弾するのも筋違いだ。
ついでに書くならば、全人類がみんなオカマとオナベになるのが理想だと言うのならば、ジェンダーフリーも宜しかろうが、私はオカマもオナベも遠慮したい。そんな理想世界も遠慮したければ、自分がオカマやオナベになるというのはもっと遠慮したい。
男は、男らしいから男であり、女は、女らしいから女である。
男でも女でもなければ、人類であるかさえ疑わしくなる。
そう言う意味では私は、歴としたオールドタイプであると、自覚しているし、宣言する。
<注釈>
(※1)それでも、「男の肋骨から人類初の女が作られた」よりは、余程増しだと思うが。おまけにその女の性で、楽園から人類は追放されると言うのが、聖書の物語である。
どちらの方が、差別的かは、明らかだろう。
(※2)「性差別」と言う概念がなければ、「性差別はいけない」とは考えようがない。「1984」のNew Speak新語法を参照されたい。
但し、性差別という概念がない故に「自然に」或いは知らず知らずに性差別してしまうと言うことはあり得る。
が、日本の歴史をひもとくと、世界的に見ても日本の女性の地位は相当に高い。喩え女性に基本的に家督相続権がなく、家系図に単に「女」としてしか記されていなくても、だ。まあ、追々述べていこう。
2. 伝説としての神話-国産みの故事の意義-
かくて日本の歴史は始まる。日本人の伝説・伝承としての物語としての歴史が。
伊弉諾尊の多くいる子供の一人が太陽を表す女神・天照大神であり、その孫が大国主の尊を下して天皇家の祖先としてこの世に天孫降臨してくるのはもう少し先で、ここに人類史の奇跡とも言うべき『神代につながってしまう長期「王朝」』・天皇制の歴史も始まる。まあ、そこに至るまでに、今も天ちゃんが持っている(筈)の3種の神器を賜ったり、今も名古屋の熱田神宮に祭られている御神刀がヤマタノオロチなんて怪物を倒したら尻尾の一つから出てきたり、色々あるのだけれど。
何れも神話である。史実は、あったとしても脚色或いは象徴化されているだろう。
何処までが史実か、或いはどんな史実が象徴化されているのか、を想像するのは楽しいが、実は余り重要ではないと、私は考える。何故ならば、かかる神話にはならなかった事実がいくらでもあるだろうからだ。
重要なのは、何故、何を思って、我らのご先祖様は、かかる物語を長きにわたって口伝で、古事記・日本書紀以降は文書=文字で、後世・後代に伝えようとしたか。だ。
「天皇の権威を高め、天皇制を絶対とするためだ。」と言う説は非常に眉唾だ。何故ならば古事記・日本書紀に見られる天皇家の祖先としての神々は、決して神々しくもなければ厳かでもない。何しろ吐瀉物やら糞尿からも神様が「発生」してししまうのだ。その神様の子孫が今の天ちゃんになってしまうのだから、昭和天皇の「人間宣言」なぞ待つまでもなく、神と人とは分け隔てがなく、天皇どころか神様まで「絶対化」にはほど遠い。せいぜい、出来が良く出世した本家のご先祖様ぐらいにしかならない。
私がこの天地開闢の故事から感じることは主に二つだ。
一つは社会の最低の単位としての夫婦と、夫婦の共同作業の重要さだ。男から声をかけないと上手く行かないなんてのは些事だ。夫婦がセックスという原初的生産活動を行うことで国土を「産みだし」、国を繁栄させるのが、国家発展の基本だと言うストレートなメッセージだ。
修身整家治国平天下と言うのは、本来為政者の心得であるが、国民一般にも適用されるべきと言うことであり、今の日本国憲法で言う国民の3大義務、納税・勤労・教育(※1)の内、勤労が最も重要だというメッセージとも取れる。
無論、伊弉諾尊も伊弉冉尊も古事記・日本書紀の編纂者も、日本国家憲法の3大義務など知りようがないのだがら、国産みの故事を以って古代日本人が後代に伝えようとした事が、日本国憲法の国民の義務として今に伝わっていると言うことだ。
もう一つは、日本の神話のあからさまなまでの性的な大っぴらさだ。
「成り成りて・・・」なんて表現、隠さない分だけ、淫靡と言うよりむしろ清々しいぐらいだ。
「だから日本人はスケベである。」と言う根拠にされそうだし、某外国人記者ならばトンデモ記事のネタに出来そうだが、この大っぴらさは日本文化の一側面をなしているのだろうが、無節操とか無定見にはつながっていないように思われる。この方面の考察も、必要なのだろうが・・・正直、私ではかなり心許ない。
「日本人はスケベか?」と言う問いには「自分のことなら判るが、日本人一般としては断じがたい。」と答えよう。
とは言え、古代日本人がこの子時を以って後代に伝えようとしたことは、十全かどうかはあるものの、確実に現在に伝わったと言えよう。
八百万の神の御名を誉む可きかな。
<注釈>
(※1)大日本帝國憲法では、兵役も義務である。
で、日本の歴史を遡っていくと・・・
教科書ならば、ここで縄文時代から話を始め、縄文式土器と弥生式土器の違いやら稲作の開始やら竪穴式住居やらと言う考古学的考察が始まるのだろうが、これは「私の歴史観」だ。歴史には史実の集合体という側面も勿論あるが、民族固有の伝説・物語としての側面も忘れてはなるまい。克てて加えて日本は縄文弥生の長い期間、文字を持たなかったため、歴史が文献として記録されず、口伝として伝承された事もあって、我が国最古の史書である日本書紀も古事記も「神代の昔」即ち神話時代から説き起こしている。
神話は無論のこと史実ではない。それは聖書が史実でないのと同じくらい確かなことだ。が、同時に口伝の集大成として記録された神話は、民族固有の伝説・物語ではあり得る。従って神話は、史実ではなくても歴史たりうる。
少なくとも、私はそう考える。
ことに日本の神話に登場する八百万の神々は、単に数が多いばかりでなく」機を織り、漁をし、失敗もすれば嫉妬もする。「全知全能」等とはほど遠いが、非道く人間くさい、親しみのもてる神々だ。これは神道が布教を目的とした、いわば異教徒に勝つための宗教ではなく、歴史と混然一体化した民族固有の伝説であることに起因しているように思われる。
史実でないことを以って伝説を排撃するのは筋違いだ。伝説はいわば共同幻想であるが、そう言う共同幻想を抱きたいと言う思い、そう言う共同幻想に対する憧れが伝説となるのであるから、伝説には伝説の価値がある。
民族固有の伝説ならば、その民族が何を好み、何を嫌うかが、自ずとその伝説に現れるだろう。
前置きが長くなったが上記のようなわけで、私の歴史観は、遡ると神代の昔にいたり、その始まりは、神話の始まりとなるから、天地開闢のこととなる。
「なりなりて、なり余りたる所あり。」「なりなりて、なり足らざる所あり。」
天地がいかにして出来上がったか、天地開闢とか天地創造というのは多くの神話や宗教にそれぞれ固有のものがある。良く知られている通り、キリスト教の聖書では全知全能の神が僅か7日間(※1)で天の太陽・月・星から陸と海、あらゆる生き物を創って最後に神にの姿に似せて男・アダムを作り、男の肋骨から女・イヴ(※2)を創った事になっている。
中国の伝承ではとてつもない巨人・盤古が死んだときに両の目が太陽と月になり、その肉体が大地、血が海になり、死体にわいたウジが人間になったと言うから、こりゃ白髪三千丈の上を行くスケールと、何とも情けない人間観が伺われる。
さて我が日本の神話というと・・・
はじめは何もない混沌だったそうな。そこへ二柱(※3)の神が登場する。伊弉冉尊(イザナミノミコト)と伊弉諾尊(イザナギノミコト)、女神と男神のカップルだ。この二人が天の御柱と言うところでお互いに声を掛け合って、「成り成りて成り余りたる処あり。」と男神が言えば、「成り成りて、成り足らざる処あり。」女神が言い、ならば「成り余りたる処」で「成り足らざる処」」を補えば都合が良いではないかと・・・婉曲表現だが、早い話がセックスシーンだ。(さすがにベットシーンとは表現しにくい。ベットじゃないだろうし。)
で、理の当然の結果として子供が出来るのだが、水蛭子と呼ばれるこの子共、骨もなくてグニャグニャしていて、箸にも棒にもかかりそうにないので船に乗せて流してしまう。
男神も女神も立派なのに、こんな子供が出来るのは何故だろうと、お伺いを立てると、最初に声を掛け合ったときに、女神の方から声をかけたのがいけないと言うお告げ。そこで改めて、今度は男神の方から声をかけてから事に及ぶと、今度は成功。島々を初めとする立派な神々が次々生まれたと言う。
日本神話の言う天地開闢の故事。またの名を「国産みの故事」と言う。女神が国土を産んでしまうのだから、国土もまた一柱の神。「八百万の神」と数が多いのも道理だろう。
<注釈>
(※1)全知全能なんだから、1瞬で創っても良さそうなものだが。
(※2)と言うことは、厳密に言うと「女は人間ではない。」と言うことになる。あなおそろしや。
(※3)神様は通常一柱、二柱と「柱」で数える。一神教なら単数形だけで数え方は要らないのだろうが。
1. 神話対ジェンダーフリー -勝負にならない-
さて先述の天地開闢の神話が意味するところは何であろうか。
ひとつには、神は人間と同様男と女があり、セックスをして子供を作ると言う、生物学的原則に基づいていると言うことだろう。
何が何だか良くわからないが、必殺技「全知全能」でこの世を創造してしまうキリスト教の神や、セックスもするし子供も作るが、神同士よりも人間にちょっかい出して半神や英雄産み出す方に熱心な(様に見える)ギリシャ神話の神々よりも、遙かに人間に臭い。
まあ、その後神様の孫がこの世に降りてきて、天皇家の祖先になってしまう「天孫降臨の故事」があるから、余り無茶な神様には出来なかった、とも考え得るが、権威を高めるだけならば、「先祖の神」には如何様にも法螺を吹けそうなもの。天地創造だろうと水上歩行だろうと自在の筈だが、そうしなかったのは、やはり当時の口伝から「そう言う伝説が伝えられていた」とは見て間違いないだろう。
昨今流行の「ジェンダーフリー」なる立場からすると、日本神話・国産みの故事は「性差別助長する」と糾弾されるかも知れない。「成り成りて成り余りたる処あり。」「成り成りて、成り足らざる処あり。」と男女の性差を肯定しているし、「女の方から声をかけたら子作りに失敗して、男の方から声をかけたら成功した。」と言うのは女性差別と言われかねない。(※1)
しかし「性差別」なんて言葉もなかった頃の物語が、「性差別を助長する」のは当たり前だ。その物語を創造した者も、継承した者も、「性差別はいけない」なんてかけらも考えなかった(※2)であろうから。
逆にそんな古い物語が性差別排撃をうたっていたら、ピラミッドの中でジェット機の模型(らしきもの)を発見するような「オーパーツ」並の奇貨だろう。
奇貨は奇貨として尊重すべきかも知れないが、奇貨でないからと非難すべき筋合いはない。
従って国産みの故事を性差別助長として糾弾するのも筋違いだ。
ついでに書くならば、全人類がみんなオカマとオナベになるのが理想だと言うのならば、ジェンダーフリーも宜しかろうが、私はオカマもオナベも遠慮したい。そんな理想世界も遠慮したければ、自分がオカマやオナベになるというのはもっと遠慮したい。
男は、男らしいから男であり、女は、女らしいから女である。
男でも女でもなければ、人類であるかさえ疑わしくなる。
そう言う意味では私は、歴としたオールドタイプであると、自覚しているし、宣言する。
<注釈>
(※1)それでも、「男の肋骨から人類初の女が作られた」よりは、余程増しだと思うが。おまけにその女の性で、楽園から人類は追放されると言うのが、聖書の物語である。
どちらの方が、差別的かは、明らかだろう。
(※2)「性差別」と言う概念がなければ、「性差別はいけない」とは考えようがない。「1984」のNew Speak新語法を参照されたい。
但し、性差別という概念がない故に「自然に」或いは知らず知らずに性差別してしまうと言うことはあり得る。
が、日本の歴史をひもとくと、世界的に見ても日本の女性の地位は相当に高い。喩え女性に基本的に家督相続権がなく、家系図に単に「女」としてしか記されていなくても、だ。まあ、追々述べていこう。
2. 伝説としての神話-国産みの故事の意義-
かくて日本の歴史は始まる。日本人の伝説・伝承としての物語としての歴史が。
伊弉諾尊の多くいる子供の一人が太陽を表す女神・天照大神であり、その孫が大国主の尊を下して天皇家の祖先としてこの世に天孫降臨してくるのはもう少し先で、ここに人類史の奇跡とも言うべき『神代につながってしまう長期「王朝」』・天皇制の歴史も始まる。まあ、そこに至るまでに、今も天ちゃんが持っている(筈)の3種の神器を賜ったり、今も名古屋の熱田神宮に祭られている御神刀がヤマタノオロチなんて怪物を倒したら尻尾の一つから出てきたり、色々あるのだけれど。
何れも神話である。史実は、あったとしても脚色或いは象徴化されているだろう。
何処までが史実か、或いはどんな史実が象徴化されているのか、を想像するのは楽しいが、実は余り重要ではないと、私は考える。何故ならば、かかる神話にはならなかった事実がいくらでもあるだろうからだ。
重要なのは、何故、何を思って、我らのご先祖様は、かかる物語を長きにわたって口伝で、古事記・日本書紀以降は文書=文字で、後世・後代に伝えようとしたか。だ。
「天皇の権威を高め、天皇制を絶対とするためだ。」と言う説は非常に眉唾だ。何故ならば古事記・日本書紀に見られる天皇家の祖先としての神々は、決して神々しくもなければ厳かでもない。何しろ吐瀉物やら糞尿からも神様が「発生」してししまうのだ。その神様の子孫が今の天ちゃんになってしまうのだから、昭和天皇の「人間宣言」なぞ待つまでもなく、神と人とは分け隔てがなく、天皇どころか神様まで「絶対化」にはほど遠い。せいぜい、出来が良く出世した本家のご先祖様ぐらいにしかならない。
私がこの天地開闢の故事から感じることは主に二つだ。
一つは社会の最低の単位としての夫婦と、夫婦の共同作業の重要さだ。男から声をかけないと上手く行かないなんてのは些事だ。夫婦がセックスという原初的生産活動を行うことで国土を「産みだし」、国を繁栄させるのが、国家発展の基本だと言うストレートなメッセージだ。
修身整家治国平天下と言うのは、本来為政者の心得であるが、国民一般にも適用されるべきと言うことであり、今の日本国憲法で言う国民の3大義務、納税・勤労・教育(※1)の内、勤労が最も重要だというメッセージとも取れる。
無論、伊弉諾尊も伊弉冉尊も古事記・日本書紀の編纂者も、日本国家憲法の3大義務など知りようがないのだがら、国産みの故事を以って古代日本人が後代に伝えようとした事が、日本国憲法の国民の義務として今に伝わっていると言うことだ。
もう一つは、日本の神話のあからさまなまでの性的な大っぴらさだ。
「成り成りて・・・」なんて表現、隠さない分だけ、淫靡と言うよりむしろ清々しいぐらいだ。
「だから日本人はスケベである。」と言う根拠にされそうだし、某外国人記者ならばトンデモ記事のネタに出来そうだが、この大っぴらさは日本文化の一側面をなしているのだろうが、無節操とか無定見にはつながっていないように思われる。この方面の考察も、必要なのだろうが・・・正直、私ではかなり心許ない。
「日本人はスケベか?」と言う問いには「自分のことなら判るが、日本人一般としては断じがたい。」と答えよう。
とは言え、古代日本人がこの子時を以って後代に伝えようとしたことは、十全かどうかはあるものの、確実に現在に伝わったと言えよう。
八百万の神の御名を誉む可きかな。
<注釈>
(※1)大日本帝國憲法では、兵役も義務である。