報じられているのは、中国の高官がチベットについて、いかなる形の独立をも認めないとする強硬姿勢を示したこと。
案の定という可きで、中国は偽物の少数民族で「五十六族(だったっけ?)共和」を歌うことはしてもそのうちの一民族だって民族自決することは認めない、民主主義の対極にあるのだから。
この高官の役職からして「統一戦線工作部長」と言う厳めしいもの。台湾は勿論、いずれ沖縄も日本も半島も「統一」するための「工作」が仕事なのだろう。(このあたりは推測の域は出ないが。)
それはともかく、この報道から分かることがいくつかある。
一つは、ダライ・ラマとの対話を通じて「中国政府はチベットのいかなる独立をも認めない」事をダライラマに伝えて来たと言うことだが、ダライラマの主張は元々「チベットの高度な自治」と言う穏健策だったのだが、中国政府としてはこれすらも独立の一種として拒否していると言うこと。
二つには「半独立や見かけ上の独立も論外だ」と言う表現。「半独立」がダライラマ主張する高度な自治であると考えると、「見かけ上の独立」とは何を意味するのか?
ダライ・ラマ言うところの高度な自治が「見かけ上の独立」と言うのは腑に落ちない。高度な自治は「見かけ上の統一」ではあっても「見かけ上の独立」とは言われまい。
これまた推測と独断の域ではあるが、「見かけ上の独立」とは、中華民国=自由中国=台湾 の事を言ったのではなかろうか。
勿論、これは事実とは異なる。台湾は清朝の時代には化外の地とされ、清朝の威光の及ばぬ蛮地とされたのだ。戦前から戦後にかけての大発展に、中国共産党は、大いに害を為すことはあっても寄与したことは殆どない。
いくら「同根同族」と言ってみたところで、依って立つ歴史が中華民国と中華人民共和国では違いすぎる。
それを「見かけ上の独立」として統一=併合しようという魂胆と見た。
先に報じられた、ダライラマの「中国との協議は失敗」宣言及び方針転換の示唆と併せて考えるならば、やはりダライ・ラマは、堪忍袋の緒を切ったのではなかろうか。
Achtung! China!
案の定という可きで、中国は偽物の少数民族で「五十六族(だったっけ?)共和」を歌うことはしてもそのうちの一民族だって民族自決することは認めない、民主主義の対極にあるのだから。
この高官の役職からして「統一戦線工作部長」と言う厳めしいもの。台湾は勿論、いずれ沖縄も日本も半島も「統一」するための「工作」が仕事なのだろう。(このあたりは推測の域は出ないが。)
それはともかく、この報道から分かることがいくつかある。
一つは、ダライ・ラマとの対話を通じて「中国政府はチベットのいかなる独立をも認めない」事をダライラマに伝えて来たと言うことだが、ダライラマの主張は元々「チベットの高度な自治」と言う穏健策だったのだが、中国政府としてはこれすらも独立の一種として拒否していると言うこと。
二つには「半独立や見かけ上の独立も論外だ」と言う表現。「半独立」がダライラマ主張する高度な自治であると考えると、「見かけ上の独立」とは何を意味するのか?
ダライ・ラマ言うところの高度な自治が「見かけ上の独立」と言うのは腑に落ちない。高度な自治は「見かけ上の統一」ではあっても「見かけ上の独立」とは言われまい。
これまた推測と独断の域ではあるが、「見かけ上の独立」とは、中華民国=自由中国=台湾 の事を言ったのではなかろうか。
勿論、これは事実とは異なる。台湾は清朝の時代には化外の地とされ、清朝の威光の及ばぬ蛮地とされたのだ。戦前から戦後にかけての大発展に、中国共産党は、大いに害を為すことはあっても寄与したことは殆どない。
いくら「同根同族」と言ってみたところで、依って立つ歴史が中華民国と中華人民共和国では違いすぎる。
それを「見かけ上の独立」として統一=併合しようという魂胆と見た。
先に報じられた、ダライラマの「中国との協議は失敗」宣言及び方針転換の示唆と併せて考えるならば、やはりダライ・ラマは、堪忍袋の緒を切ったのではなかろうか。
Achtung! China!