田母神空幕長が「日本は侵略国家とは言い難い。」とする論文を書いて懸賞に応募し、「政府見解に反し不適切」との理由で更迭され、さらに空幕長という役職を失ったが故に定年が繰り上がって定年退職となったことは報じられている通り。案の定の朝日新聞をはじめとして、日経も毎日も、こぞってマスコミは此を攻撃し、「今回のような事態の再発を防ぐには、制服組の自衛官の教育と人事管理を強化する必要がある」等と息巻いている。
野党である民主党がこれ幸いと、「更迭で済む問題ではない」と怪気炎を上げれば、与党であるはずの公明党まで妙なことを口走る始末。世はこぞって田母神前空幕長を叩き、自衛隊の再教育と人事管理強化を叫んでいる様相と見えなくもない。曰く、シビリアンコントロール、文民統制の強化が必要である、と。
かつての「軍部の独走」(※1)を許さないために、と。
だが、気付いているのだろうか。
制服組であろうが背広組であろうが、歴史観を教育して人事管理に歴史観を含めると言うことは、一種のマインドコントロールとなりかねないし、それは日本の防衛力の本質的かつ壊滅的な低下をもたらしかねない、と言うことに。
世の中には、「日本の軍隊である自衛隊なぞ、弱ければ弱い程良い。」と考える、酔狂というか趣味人というか、私の理解の到底及ばない人々もいるから、そうした人々がそうした目的で、かかる文民統制を叫ぶのは理解するが、「かつての軍部の暴走の悪夢」の故にかかる思想統制に力を貸す、少なくとも容認することは,亡国への道となりかねない、貴方はそれを甘受するのか、と言うのが拙文の主眼である。
我が国は国名に民主主義こそ入っていないが(※2)立派な民主主義国であり、それが故に国民の政治意識、軍事意識、国防意識の涵養が極めて重大であると考えるが故に。
はじめに断っておくが、私は精強な自衛隊こそ抑止力の根幹と考えており、精強過ぎて困るようならば(※3)数を減らして調整すれば良いのだから、自衛隊は精強である程良いし、国威の発揚にもなると考える者である。
<注釈>
(※1)それを煽ったのは、他ならぬマスコミであったことはおくびにも出さず。
朝日新聞なぞその社説でのうのうと、「隊員教育の再点検を急げ」として、大日本帝国陸海軍と自衛隊は断絶すべきとし、自衛隊員への洗脳を、正当化どころか「急げ」と抜かしている。
http://www.asahi.com/paper/editorial20081108.html?ref=any
(※2)どういう訳か、国名に民主主義を入れている国ほど非民主的であるような気がする。
(※3)そんな事態は滅多にないが。何しろお隣には、百万単位で数える陸軍を擁する大国がいるのだから。
.シビリアンコントロール=文民統制の本来
戦後自衛隊の大前提とも言える、シビリアンコントロール、日本語で言う文民統制は、今回の「事件」の対策として主張される「制服組の教育と人事管理の強化」の根拠ともなっているが、さてその本質とは何であろうか。
文民統制は平たく言えば「文官は武官に優先する。」と言うことであろうが、ありとあらゆる事に文官=背広組(と言うのかな)が制服組を統制する、と言うわけではあるまい。例えば戦術上の細かい判断、どの砲やどの戦車を使ってどの丘を取るか、等は武官=制服組が文官に許可を得ることなく判断し、命令すべきである。さもなきゃ、勝てる戦争などありはしない。文民統制は、敗戦を目的とはしていないはずだ。(多分)
一言で言えば文民統制の根幹は「開戦と終戦/休戦は文官が決める。」と言うことであり、大所高所からの決断である、戦争開始と終結、及びそれに準じる大戦略・戦略の決定に文官が優先権、決定権を持ち、下位レベルの戦術判断は武官・制服組に任せるべきである。
言い換えれば、文官の武官支配は、開戦や休戦、戦闘開始と停止や大まかな方針のような高位の判断・決定に止まるべきであり、文民統制にはある有効範囲があるべきだ。
こう書くと、きっと「軍部の横暴を助長する気か。」あるいは「クーデタの準備を促すものだ」とか、言い出す人が居そうだが、これで十分「戦前のような軍部の暴走」は阻止できる。文官が、戦闘停止を命じることが出来るのだから。
「文官の命令を武官が聞かなかったらどうする。」と言う反論はあり得るが、かかる事態は敵前反抗に他ならず、普通、軍法では敵前反抗は銃殺が相場だから、文官の停戦命令に反した武官は銃殺の危険を冒さねばならない。
尤も、今の自衛隊には軍法が無く、敵前反抗しても敵前逃亡しても銃殺される心配はない。これを理由にあらゆるレベルでの「文民統制=文官優先」と言うのは、負け戦の準備をしているようなものだろう。
一刻も早い我が国の軍法整備と、文民統制の範囲の明確化(それは、交戦規定の明文化も含むだろう)が求められる所以である。
.歴史観=社会観の根幹
さて、文民統制が高位の決定・決断に止まるべきとして、それは武官の歴史観統制に及ぶ可きであろうか。
そもそも、歴史観たるものは、この項の表題にもした通り、社会認識の根幹である。社会にせよ何にせよ、人は他と比較することによってそのものを知る。社会の場合、空間軸に沿って他国や、時間軸に沿って他時代と比較することで、今の社会を理解し、把握することが出来る。この時間軸に沿っての比較が、歴史観となる以上、歴史観は社会認識の根幹をなす双璧の一方と言うべきであろう。
従って、歴史観を軽々しく扱うべきではない。それは人の数だけ合って当たり前であり、他国や他勢力と「共通化」を図ると言うことは、思想統制または売国行為につながりかねない重大事である。
であるならば、たとえ自衛隊=軍に対するものであっても、自衛官とて国民の一人であるのだから、思想統制されるいわれはなく、歴史観の強制は許されるべきではない。
況わんや、近隣国の歴史観を強制されるなど、論外である。
それは、思想侵略と言うべきだ。国防の尖兵たる自衛隊に対する思想侵略は、サイバーテロによる情報網侵略よりも始末に悪く、恐ろしいものと言えよう。
.もしも空幕長が共産党員またはシンパであったなら・・・
さて、ここで一寸目先を変えて、「もしも空幕長が共産党員またはそのシンパであったなら。」と言う仮想をしてみよう。
「そんな馬鹿なことはあり得ない。」と断言できれば幸せなのだが、かのオウム真理教に退役した自衛官が入信していた事実は、少なくとも一時期、自衛官の中にオウム真理教徒が居た事を示しており、共産党員の空幕長というのもあながち荒唐無稽とは言い難い。
秘密党員という制度が今の共産党にあるのかどうか知らないが、共産党シンパなら別に登録も申請もないのだから、証拠もなければ実証も不可能だろう。
さてこの空幕長、仮にX空幕長としよう、がその共産党(あるいはそのシンパ)ぶりを大いに発揮して、大日本帝国悪玉論をこと有るごとに公言し、外部へ論文も投稿もどんどん書いたとしたら、どうなるだろう。無論、共産党の主張の内「政府見解とは異なる」自衛隊違憲論や廃止論は狡猾に隠し、口をつぐんで口外しなかったとしたら、一体何が起きるだろうか。
表面上、何も起きないのだ。
何故ならば、X空幕長が開陳する大日本帝国悪玉論は、村山談話に美事に合致し、「政府見解に沿った」ものであるから、彼は少なくともこの論によって更迭されることはない。中国や韓国あたりからは「正しい歴史認識を持つ空幕長」として「信頼」される可能性さえ高い。と言うことはこのX空幕長、巡り合わせが良ければ、制服組の最高峰、統幕長にさえなる可能性が有る。
さて、このX空幕長をその職に安穏とさせ、田母神前空幕長を更迭すると言う今の日本及び日本政府の状況は、果たして正常と言えるだろうか。
さらに言えば、この様なX空幕長の元で、航空自衛隊の士気と練度を、維持或いは向上させることができるとは、私には到底思えない。
大日本帝国には空軍がなかった(※1)から、航空自衛隊は旧日本軍との結びつきが三軍の中で最も希薄なのではあろうが、先人を貶める事しか許されず、歴史を奪われた状態の軍隊が、強くなれるはずがない。
愛国心というと目の敵にするような人も世の中にはあるが、愛国心のない軍隊というのも、それが我が軍であるならば、恐怖すべき対象ではないか。
<注釈>
(※1)陸軍航空隊、海軍航空隊があった。アメリカが空軍を創設するのも戦後だ。
.歴史観の相違は、更迭の理由とすべきではない。
繰り返し覚悟で書くが、「今回のような事態の再発を防ぐには、制服組の自衛官の教育と人事管理を強化する必要がある」として、歴史観を統制する思想統制には、歴史観の如何に関わらず私は反対する。それは、田母神前空幕長の大日本帝国擁護論であっても、村山談話の大日本帝国悪玉論であっても反対する。
理由は、これまた重複覚悟だが、歴史観は社会観の根幹をなすものであり、民主主義国では人の数だけ在るのが当たり前である。この状態を単一の歴史観で統一することは、非民主的であるばかりではなく、組織の判断の柔軟性を奪い、自衛隊という組織を軍隊として弱体化させるものである。
抑止力として有効であるためには、自衛隊は精強でなければならない。また、精強であるように尽力することは、空幕長はじめ自衛隊幹部の勤めでもある。
軍人が政治に口を出すべきで無いというのは、現政策についてであって、村山談話のような歴史観という抽象論は、軍人にとっても論議の対象であるべきだ。
そして、歴史観を論議の対象としうる「民主的」な自衛隊とすることは、結局自衛隊の精強を保つことになる。それは空幕長はじめとする自衛隊幹部の任務の一つである。
故に、田母神空幕長の論文は、「政府見解に反する」ものとは言え、更迭の理由とすべきものではない。
想起されたい。田母神空幕長は、おのが持論を絶対のものとも、強制すべきものとも主張していない。朝日や日経や毎日の魔女狩りさながらの言論統制とは全く異なり、正に上記に述べた自衛隊幹部としての勤めを果たしていたのである。
田母神俊雄氏は既に更迭され、航空自衛隊さえ定年退職されてしまった。私としては残念でならない。
野党である民主党がこれ幸いと、「更迭で済む問題ではない」と怪気炎を上げれば、与党であるはずの公明党まで妙なことを口走る始末。世はこぞって田母神前空幕長を叩き、自衛隊の再教育と人事管理強化を叫んでいる様相と見えなくもない。曰く、シビリアンコントロール、文民統制の強化が必要である、と。
かつての「軍部の独走」(※1)を許さないために、と。
だが、気付いているのだろうか。
制服組であろうが背広組であろうが、歴史観を教育して人事管理に歴史観を含めると言うことは、一種のマインドコントロールとなりかねないし、それは日本の防衛力の本質的かつ壊滅的な低下をもたらしかねない、と言うことに。
世の中には、「日本の軍隊である自衛隊なぞ、弱ければ弱い程良い。」と考える、酔狂というか趣味人というか、私の理解の到底及ばない人々もいるから、そうした人々がそうした目的で、かかる文民統制を叫ぶのは理解するが、「かつての軍部の暴走の悪夢」の故にかかる思想統制に力を貸す、少なくとも容認することは,亡国への道となりかねない、貴方はそれを甘受するのか、と言うのが拙文の主眼である。
我が国は国名に民主主義こそ入っていないが(※2)立派な民主主義国であり、それが故に国民の政治意識、軍事意識、国防意識の涵養が極めて重大であると考えるが故に。
はじめに断っておくが、私は精強な自衛隊こそ抑止力の根幹と考えており、精強過ぎて困るようならば(※3)数を減らして調整すれば良いのだから、自衛隊は精強である程良いし、国威の発揚にもなると考える者である。
<注釈>
(※1)それを煽ったのは、他ならぬマスコミであったことはおくびにも出さず。
朝日新聞なぞその社説でのうのうと、「隊員教育の再点検を急げ」として、大日本帝国陸海軍と自衛隊は断絶すべきとし、自衛隊員への洗脳を、正当化どころか「急げ」と抜かしている。
http://www.asahi.com/paper/editorial20081108.html?ref=any
(※2)どういう訳か、国名に民主主義を入れている国ほど非民主的であるような気がする。
(※3)そんな事態は滅多にないが。何しろお隣には、百万単位で数える陸軍を擁する大国がいるのだから。
.シビリアンコントロール=文民統制の本来
戦後自衛隊の大前提とも言える、シビリアンコントロール、日本語で言う文民統制は、今回の「事件」の対策として主張される「制服組の教育と人事管理の強化」の根拠ともなっているが、さてその本質とは何であろうか。
文民統制は平たく言えば「文官は武官に優先する。」と言うことであろうが、ありとあらゆる事に文官=背広組(と言うのかな)が制服組を統制する、と言うわけではあるまい。例えば戦術上の細かい判断、どの砲やどの戦車を使ってどの丘を取るか、等は武官=制服組が文官に許可を得ることなく判断し、命令すべきである。さもなきゃ、勝てる戦争などありはしない。文民統制は、敗戦を目的とはしていないはずだ。(多分)
一言で言えば文民統制の根幹は「開戦と終戦/休戦は文官が決める。」と言うことであり、大所高所からの決断である、戦争開始と終結、及びそれに準じる大戦略・戦略の決定に文官が優先権、決定権を持ち、下位レベルの戦術判断は武官・制服組に任せるべきである。
言い換えれば、文官の武官支配は、開戦や休戦、戦闘開始と停止や大まかな方針のような高位の判断・決定に止まるべきであり、文民統制にはある有効範囲があるべきだ。
こう書くと、きっと「軍部の横暴を助長する気か。」あるいは「クーデタの準備を促すものだ」とか、言い出す人が居そうだが、これで十分「戦前のような軍部の暴走」は阻止できる。文官が、戦闘停止を命じることが出来るのだから。
「文官の命令を武官が聞かなかったらどうする。」と言う反論はあり得るが、かかる事態は敵前反抗に他ならず、普通、軍法では敵前反抗は銃殺が相場だから、文官の停戦命令に反した武官は銃殺の危険を冒さねばならない。
尤も、今の自衛隊には軍法が無く、敵前反抗しても敵前逃亡しても銃殺される心配はない。これを理由にあらゆるレベルでの「文民統制=文官優先」と言うのは、負け戦の準備をしているようなものだろう。
一刻も早い我が国の軍法整備と、文民統制の範囲の明確化(それは、交戦規定の明文化も含むだろう)が求められる所以である。
.歴史観=社会観の根幹
さて、文民統制が高位の決定・決断に止まるべきとして、それは武官の歴史観統制に及ぶ可きであろうか。
そもそも、歴史観たるものは、この項の表題にもした通り、社会認識の根幹である。社会にせよ何にせよ、人は他と比較することによってそのものを知る。社会の場合、空間軸に沿って他国や、時間軸に沿って他時代と比較することで、今の社会を理解し、把握することが出来る。この時間軸に沿っての比較が、歴史観となる以上、歴史観は社会認識の根幹をなす双璧の一方と言うべきであろう。
従って、歴史観を軽々しく扱うべきではない。それは人の数だけ合って当たり前であり、他国や他勢力と「共通化」を図ると言うことは、思想統制または売国行為につながりかねない重大事である。
であるならば、たとえ自衛隊=軍に対するものであっても、自衛官とて国民の一人であるのだから、思想統制されるいわれはなく、歴史観の強制は許されるべきではない。
況わんや、近隣国の歴史観を強制されるなど、論外である。
それは、思想侵略と言うべきだ。国防の尖兵たる自衛隊に対する思想侵略は、サイバーテロによる情報網侵略よりも始末に悪く、恐ろしいものと言えよう。
.もしも空幕長が共産党員またはシンパであったなら・・・
さて、ここで一寸目先を変えて、「もしも空幕長が共産党員またはそのシンパであったなら。」と言う仮想をしてみよう。
「そんな馬鹿なことはあり得ない。」と断言できれば幸せなのだが、かのオウム真理教に退役した自衛官が入信していた事実は、少なくとも一時期、自衛官の中にオウム真理教徒が居た事を示しており、共産党員の空幕長というのもあながち荒唐無稽とは言い難い。
秘密党員という制度が今の共産党にあるのかどうか知らないが、共産党シンパなら別に登録も申請もないのだから、証拠もなければ実証も不可能だろう。
さてこの空幕長、仮にX空幕長としよう、がその共産党(あるいはそのシンパ)ぶりを大いに発揮して、大日本帝国悪玉論をこと有るごとに公言し、外部へ論文も投稿もどんどん書いたとしたら、どうなるだろう。無論、共産党の主張の内「政府見解とは異なる」自衛隊違憲論や廃止論は狡猾に隠し、口をつぐんで口外しなかったとしたら、一体何が起きるだろうか。
表面上、何も起きないのだ。
何故ならば、X空幕長が開陳する大日本帝国悪玉論は、村山談話に美事に合致し、「政府見解に沿った」ものであるから、彼は少なくともこの論によって更迭されることはない。中国や韓国あたりからは「正しい歴史認識を持つ空幕長」として「信頼」される可能性さえ高い。と言うことはこのX空幕長、巡り合わせが良ければ、制服組の最高峰、統幕長にさえなる可能性が有る。
さて、このX空幕長をその職に安穏とさせ、田母神前空幕長を更迭すると言う今の日本及び日本政府の状況は、果たして正常と言えるだろうか。
さらに言えば、この様なX空幕長の元で、航空自衛隊の士気と練度を、維持或いは向上させることができるとは、私には到底思えない。
大日本帝国には空軍がなかった(※1)から、航空自衛隊は旧日本軍との結びつきが三軍の中で最も希薄なのではあろうが、先人を貶める事しか許されず、歴史を奪われた状態の軍隊が、強くなれるはずがない。
愛国心というと目の敵にするような人も世の中にはあるが、愛国心のない軍隊というのも、それが我が軍であるならば、恐怖すべき対象ではないか。
<注釈>
(※1)陸軍航空隊、海軍航空隊があった。アメリカが空軍を創設するのも戦後だ。
.歴史観の相違は、更迭の理由とすべきではない。
繰り返し覚悟で書くが、「今回のような事態の再発を防ぐには、制服組の自衛官の教育と人事管理を強化する必要がある」として、歴史観を統制する思想統制には、歴史観の如何に関わらず私は反対する。それは、田母神前空幕長の大日本帝国擁護論であっても、村山談話の大日本帝国悪玉論であっても反対する。
理由は、これまた重複覚悟だが、歴史観は社会観の根幹をなすものであり、民主主義国では人の数だけ在るのが当たり前である。この状態を単一の歴史観で統一することは、非民主的であるばかりではなく、組織の判断の柔軟性を奪い、自衛隊という組織を軍隊として弱体化させるものである。
抑止力として有効であるためには、自衛隊は精強でなければならない。また、精強であるように尽力することは、空幕長はじめ自衛隊幹部の勤めでもある。
軍人が政治に口を出すべきで無いというのは、現政策についてであって、村山談話のような歴史観という抽象論は、軍人にとっても論議の対象であるべきだ。
そして、歴史観を論議の対象としうる「民主的」な自衛隊とすることは、結局自衛隊の精強を保つことになる。それは空幕長はじめとする自衛隊幹部の任務の一つである。
故に、田母神空幕長の論文は、「政府見解に反する」ものとは言え、更迭の理由とすべきものではない。
想起されたい。田母神空幕長は、おのが持論を絶対のものとも、強制すべきものとも主張していない。朝日や日経や毎日の魔女狩りさながらの言論統制とは全く異なり、正に上記に述べた自衛隊幹部としての勤めを果たしていたのである。
田母神俊雄氏は既に更迭され、航空自衛隊さえ定年退職されてしまった。私としては残念でならない。