「中庸は徳の致す処なり。」と言うそうだ。何事も極端に走らず、程々のところが宜しい(※1)という意味だ。なかなか日本人好みの言葉だが、日本では「中庸」よりも「中立」の方がもてはやされるようで、かつて社民党の前身・社会党は、自衛隊違憲(※2)と同じぐらい強力に、非武装中立というのを標榜していた。
 近年では9.11以来の米国主導の「テロとの戦い」に対し、「テロにも、米国にも屈しない第3の道を探れ。」などと主張する人が念頭に置くのも、やはり「(※3)中立」だろう。
 が、中立というのは非武装では成り立たない。洞ヶ峠にノホホンと(※4)しておられる訳じゃありませんよ、と言うのが今回の話。「戦争煽り」とか「人殺しをしたいのか。」などと切って捨てることなく、暫時おつき合い願えれば幸いだ。

議論、討論は大歓迎である。従って、理の当然ながら、異論反論を論破することはあっても、無条件に削除するようなことはしない。

 「敵を作らなかった者は、味方も作らなかった。」キケロ


1.永世中立国スイスの徴兵制

 スイスと言えば、永世中立国として有名。何しろその中立性のために、2002年まで国連加盟を拒否(※1)していたほどの国だ。
 欧州のほぼ中央に位置してアルプスを擁し、風光明媚な観光大国で永世中立国とくれば、日本でも人気の観光先ではあるが、そのスイスが徴兵制を執行する国民皆兵制を国是としていることは、永世中立ほどには有名ではないようだ。
 ましてや、新築の家の地下には核シェルター(耐核防空壕)の設置が義務付けられており、すでに全国民を収容するに足る核シェルターを用意しているという事実は、さらに知られていない。
 この核シェルター、一見したところ扉の分厚い地下倉庫ぐらいにしか見えない。が、たかが地下にあるだけの防空壕と、侮ってはならない。地下に頑丈な構造で作られた核シェルターならば、数百m先の核爆発(※2)に耐えることができる。勿論その頃地上は凄まじい爆風と放射線に曝される訳だが、土か水が1mあれば放射線は1/100になるとされる(※3)のだから、地下にある核シェルターは相当安全だ。爆風と1次放射線は核爆発の瞬間だけ。2次放射線、いわゆる死の灰も時間と共に減っていくから、核シェルターの中にしばらく籠城するだけの水と食料、それに適切な換気設備(※4)があれば、たとえ核攻撃を受けても相当人的被害は極限出来る。スイスにはその備えがあるわけだ。
 かてて加えて、先述の通りの徴兵制である。徴兵制は、兵の平均的質という点では必ずしも喜ばしいものではない。当たり前だが一般的に、徴兵より志願兵の方が士気も高いし訓練も効果的である。が、徴兵制ならば、なにしろ「国民皆兵」が建前になるから頭数が揃う。実際には徴兵を何らかの理由で逃れるものもあるし、いくら総力戦を戦う戦時でも、すべての成年男子を戦場に送ってしまっては国の経済が成り立たないから、「男はみんな武器を取れ。」とはスローガンに過ぎないが、その動員数は並ではない。全人口750万人のスイスにおいても10万人単位の動員が可能とされる。1個師団が1万人と単純計算すると、10個師団オーダー。軍団単位で動員されることになる。
 ちなみに我らが自衛隊は3軍合わせて約25万人だ。
 かくも永世中立国の老舗、スイスは重武装である。さらに恐るべきなのは、国民皆兵の軍に加えて民間防衛組織が強力である事や、国民に配布されていた民間防衛のパンフレット「民間防衛」では、天災人災や他国からの侵略に対する心得は勿論、スイス政府が降伏した場合も諦めるなと明記されている。レジスタンス(抵抗運動)やパルチザンをやれとは書かれていないが、占領軍に非協力で抵抗し、「黙って時を待て」と。スイス亡命政府が、再びスイスに自由をもたらすその日まで、と。(※5)
 誠、畏怖するに値する国防意識の高さ、そしてまた、国防力の高さである。
 なお、スイスは海に面していないから、少数の河川艦艇は保有するものの、海軍はない。昔、何かの平和式典に「スイス海軍」が招待されて、大いに困惑したそうだ。
 一方、スイス空軍は有って(※6)、さすがにホーカーハンター爆撃機(※7)やユンカースJu-52輸送機(※8)は退役したが、ミラージュ3(※9)やF-5EタイガーII(※10)なんて旧式機や、F/A-18(※11)なんて新型機も持っている。

 故・牧英夫氏はスイスの徴兵制と軍備をさして曰く、「誰も怪我してまで鳩時計は欲しくないのである。」と。だがそのためには、鳩時計をも欲しがる侵略者に怪我させるだけの武力が不可欠だ。

 永世中立国という、一見平和の象徴のように見えるスイスが、かくも重武装なのは何故だろうか。

2立国が、中立を保つには。

 単純な話だが、平和も中立も、天から降ってくるわけじゃない。「水と安全はタダ」じゃない。平和も中立も自らの努力で勝ち取るものである。
 例えばある国が、中立政策をとろうと決心したとしよう。仮にこの国をA国としよう。このためにこの国はなにをすべきだろうか。
 まず第1には、その中立政策を内外に宣言すべきだろう。勿論宣言だけでは意味が無く中立政策の実施が必須となる。中立政策とは、対立する両陣営のいずれにも荷担しないと言うことであり、東西冷戦時代には米国にもソ連にも相応の距離を置くと言うこと。今で言うならば対テロ戦争を実施している米国ほかの先進国と、アルカイーダをはじめとするテロリストたちの何れにも肩入れしない、と言うことが必要になる。
 言葉で言うほど簡単じゃない。
 自給自足が可能で、他国との貿易をやらなくても存続できるような国(※1)なら別だが、現在の我が国のように加工貿易を生業とする国は、世界中に貿易品を売って歩かなければ成り立たない。「両方に売る」と言った所で、冷戦時代の東西にせよ、対テロ戦実施国とテロリストにせよ、購買力に差があるのが普通だから、「両方に平等に売る」ためには、相当な政治介入が不可欠である。それは自由貿易の対局にあるものだし、貿易としても相当な逸失利益=損を許容しなければならない。
 さらには、国防の問題がある。
 このA国に二つの隣国B国とC国があったとしよう。この二つの隣国が対立していた場合、A国はどの様な防衛政策をとれるだろうか。
 「非武装中立」などというものは論外だ。第1次大戦のベルギーが、中立国であるが故にドイツへの対仏侵攻路となったように、B国にして見れば非武装のA国はC国へ門戸を開放しているに等しいし、C国にしてみればその逆。A国の「中立宣言」なぞ、相手国が尊重するという保証は何処にもない。
 すると中立国たらんとするA国は、B国が攻めてこようが、C国が攻めてこようが、両方同時に攻めてこようが、これを撃退できるだけの(少なくとも、B国やC国がそれを納得するだけの)軍備を持たなければ、中立性が疑われる。
 スイスが実施しているのはまさにこの国防策である。
 かつて中立政策を採ったスゥエーデンも同様の策を取っており、全人口1000万人のこの国が24時間で60万人を動員できるとされていた他、外国製の武器では中立性が保たれないと言うコンセプトから(※2)独自の軍需産業を整備し、戦闘機まで(※3)自主開発している。

<注釈>

(※1)江戸時代に「鎖国」していた我が国が、これに近いかもしれない。鎖国とは言っても、相応の情報収集はしていた事にも留意すべきだ。
(※2)第2次大戦中、中立国であるが故に、喉から手が出るほど欲しい(戦時下である。当たり前だ。)武器を売って貰えなかった苦い経験がある。
(※3)さすがにエンジンとミサイルはライセンス国産だ。
 翻って我が国は、ミサイルは自主開発しているが、戦闘機やエンジンの殆どはライセンス国産。「国産化率」はスゥエーデンの方が上かも知れない。

3.無防備都市宣言と言う幻想

 この世には酔狂な人も居るもので、「無防備地域宣言」だの「無防備都市宣言」を出している地方自治体があるそうだ。ジュネーブ条約に則っている、オーソライズされていると言うのが売りだそうだ。
 が、私には、特に地方自治体によってこれがなされる場合、「勝手な降伏」以外の何ものとも思えないし、これで市民の生命なり財産なりが守られたと言う実績は殆どない。
 それはそうだろう。まずこの宣言を出すのに軍隊も軍備も追い出して丸腰になった上で、侵略者に対して無血開場してその支配に委ねようと言うのだから、よっぽど人が好いか、人を信じない限り、まず実施できない。人を信じるのは気高い事かも知れないが、かかっているのは「無辜の市民」の生命財産だ。
 「非戦闘員の市民だから、相手も無茶はすまい。」と言うのも相当甘い考えと断ぜざるを得ない。戦略爆撃に通商破壊と、近代戦は正にその非戦闘員を標的として仕掛けられるのだから、「丸腰です。無防備都市宣言も出しました。」で、相手が遠慮してくれると言う、少なくとも保証はない。(※1)
 第2次大戦末期にパリが無血開城した例が、この宣言の有効な例としてあがっているようだが、「パリは燃えているか」(※2)にもある通り、あれはパリ防衛の任に当たったドイツ軍司令官が勝手に降伏したからこその無血入城で、パリ市なりなんなりの自治体が「無防備都市宣言」を出したわけではない。
 さらには、このドイツ軍司令官にはヒトラー直々に「パリを連合軍に渡すぐらいなら、廃墟にせよ。」と焦土作戦を命じられていた。そうであればこそ彼は、パリを守るための「勝手な降伏」を選んだのだが、これは明らかな敵前反抗に当たる。軍法会議にかけられれば銃殺が通り相場だ。
 その個人的危険を犯して「勝手な降伏」を選んだこのドイツ軍司令官を、尊敬すべきかも知れないが、それは同時にこのパリ無血開城と言う事例が、連合軍の良心と、ドイツ軍司令官の個人的勇気、さらにはパリという特異な都市(※3)と言う特殊条件の生み出した、ある種の奇跡であることを示しており、到底一般化はできない。
防備都市宣言が有効であるという一般則は未だ見いだされていない。従って、こんなモノに頼って武力整備を怠るとは愚の骨頂であろう。
 「和戦両様の2段構え」なんて説もあるようだが、元々外交も軍事も政治の手段であるから、「和戦両様」は当たり前。その「和」が「無防備都市宣言」だとするならば、銃後が勝手に降伏するような状況で、何で前線がまともに戦えるモノか、考えるべきだろう。それは、「2段構え」にあらず、一気に本丸落城である。

 チベットが無防備都市宣言を出していたら、ダライ・ラマ14世は亡命の憂き目にあわずにすんだとは、私には全く思われない。

4.中立には重武装が不可欠である

 非武装にして中立というのが、一種の理想であることは確かだろう。誰とも争わず、喧嘩せず、平和に生きる事ができればこれに越したことはない。
 だが、この世は、憲法前文の理想世界でもなければ、豹がその斑をすべて洗い流してジャージー種の牛と同じ仕事をもらっている世の中ではない。
 近隣諸国関係と近所つきあいは違うのである。あなたのお隣さんは、核ミサイルで脅しなんかかけて来ないだろう。
 油断すれば領土も資源も掠め取られるし、甘い顔すればつけあがられる。戦争ともなれば勝つために、市民や商船や都市を相手に攻撃を集中するのが当たり前なのが、今の、今までの国際社会であり歴史である。
 予測しうる将来に関する限り、これを覆す要因は見あたらない。

 中立とは「誰とでもお友達になれる状態。」ではない。

 中立とは「誰からも敵と見なされうる状態」である。

 中立とは、孤高と不可分である。
 孤高の覚悟がない者に、中立を唱える資格はない。