3.無防備都市宣言と言う幻想

 この世には酔狂な人も居るもので、「無防備地域宣言」だの「無防備都市宣言」を出している地方自治体があるそうだ。ジュネーブ条約に則っている、オーソライズされていると言うのが売りだそうだ。
 が、私には、特に地方自治体によってこれがなされる場合、「勝手な降伏」以外の何ものとも思えないし、これで市民の生命なり財産なりが守られたと言う実績は殆どない。
 それはそうだろう。まずこの宣言を出すのに軍隊も軍備も追い出して丸腰になった上で、侵略者に対して無血開場してその支配に委ねようと言うのだから、よっぽど人が好いか、人を信じない限り、まず実施できない。人を信じるのは気高い事かも知れないが、かかっているのは「無辜の市民」の生命財産だ。
 「非戦闘員の市民だから、相手も無茶はすまい。」と言うのも相当甘い考えと断ぜざるを得ない。戦略爆撃に通商破壊と、近代戦は正にその非戦闘員を標的として仕掛けられるのだから、「丸腰です。無防備都市宣言も出しました。」で、相手が遠慮してくれると言う、少なくとも保証はない。(※1)
 第2次大戦末期にパリが無血開城した例が、この宣言の有効な例としてあがっているようだが、「パリは燃えているか」(※2)にもある通り、あれはパリ防衛の任に当たったドイツ軍司令官が勝手に降伏したからこその無血入城で、パリ市なりなんなりの自治体が「無防備都市宣言」を出したわけではない。
 さらには、このドイツ軍司令官にはヒトラー直々に「パリを連合軍に渡すぐらいなら、廃墟にせよ。」と焦土作戦を命じられていた。そうであればこそ彼は、パリを守るための「勝手な降伏」を選んだのだが、これは明らかな敵前反抗に当たる。軍法会議にかけられれば銃殺が通り相場だ。
 その個人的危険を犯して「勝手な降伏」を選んだこのドイツ軍司令官を、尊敬すべきかも知れないが、それは同時にこのパリ無血開城と言う事例が、連合軍の良心と、ドイツ軍司令官の個人的勇気、さらにはパリという特異な都市(※3)と言う特殊条件の生み出した、ある種の奇跡であることを示しており、到底一般化はできない。

 似たようなものに「反核平和都市宣言」と言うのもあるが、これなぞ私に言わせれば笑止の極み。日本国が核武装するか否かは日本国政府が決める事。広島県なり、長崎市なりが、勝手に核武装など出来ようはずがない。(※4)日本全国全都道府県全市町村が「反核平和主義宣言」を出したとしても、日本国が核武装を決心すれば、日本は核武装するのだから、こんな宣言や、宣言を示す看板は一種の意思表示では有っても、国会周辺をデモする程度の効果もありはしない。
 
 話がそれた。
 結論から言うと、無防備都市宣言が有効であるという一般則は未だ見いだされていない。従って、こんなモノに頼って武力整備を怠るとは愚の骨頂であろう。
 「和戦両様の2段構え」なんて説もあるようだが、元々外交も軍事も政治の手段であるから、「和戦両様」は当たり前。その「和」が「無防備都市宣言」だとするならば、銃後が勝手に降伏するような状況で、何で前線がまともに戦えるモノか、考えるべきだろう。それは、「2段構え」にあらず、一気に本丸落城である。

 チベットが無防備都市宣言を出していたら、ダライ・ラマ14世は亡命の憂き目にあわずにすんだとは、私には全く思われない。

<注釈>
(※1)そりゃベトナム戦争でアメリカは相当遠慮しながら北爆をやったが、第2次大戦では全く遠慮しなかった。
(※2)ハヤカワNF文庫に、かつてはあった。今は単行本になっている。映画も結構史実をなぞっている。
(※3)加えて、ドイツ軍自体の混乱かな。
(※4)北朝鮮でもできたのだから、経済的には可能かも知れないが。

4.中立には重武装が不可欠である

 非武装にして中立というのが、一種の理想であることは確かだろう。誰とも争わず、喧嘩せず、平和に生きる事ができればこれに越したことはない。
 だが、この世は、憲法前文の理想世界でもなければ、豹がその斑をすべて洗い流してジャージー種の牛と同じ仕事をもらっている世の中ではない。
 近隣諸国関係と近所つきあいは違うのである。あなたのお隣さんは、核ミサイルで脅しなんかかけて来ないだろう。
 油断すれば領土も資源も掠め取られるし、甘い顔すればつけあがられる。戦争ともなれば勝つために、市民や商船や都市を相手に攻撃を集中するのが当たり前なのが、今の、今までの国際社会であり歴史である。
 予測しうる将来に関する限り、これを覆す要因は見あたらない。

 中立とは「誰とでもお友達になれる状態。」ではない。

 中立とは「誰からも敵と見なされうる状態」である。

 中立とは、孤高と不可分である。
 孤高の覚悟がない者に、中立を唱える資格はない。