仕事と家とスーパーばっかりなので、久しぶりにフィールドワークに出てみた。

最近読んだ、石仏の書籍に掲載されていて、改めて行きたくなったので、箱根まで足を伸ばしてみた。

元箱根磨崖仏。以前行った時は、トイレがある施設があったのに、なくなっていましたびっくり

ちなみに、その時は、霧で前方が見えず諦めて帰ったのでした。

と言うわけで、リベンジキラキラ


元箱根石仏群は、中世の地蔵信仰を物語る遺物として、国指定重要文化財に指定されています。
六道地蔵尊と覆屋
覆屋は、発掘調査を元に室町時代のものを再現している。

鎌倉時代に作られた磨崖仏として関東最大の3,5mもあり、とても大きい。
発掘調査で、周辺の地盤が山崩れにより埋まってしまったことがわかり、掘削し、再発が無いように補強、基質強化などをし、作られた当時の状態を再現したそうです。
正安2(1300)年と右側にある文字から読み取れると掲示板に書いてありましたが、文字が風化してどこか分からないガーン
他にも何か書かれているらしいのですが、風化がひどくて現在も解読中とのことです。

六道地蔵周囲の石仏。
廃仏毀釈の影響か、首が無いお地蔵さんがいっぱいでちょっと怖い滝汗

宝篋印残欠(伝八百比丘尼の墓)

全国に伝承がある八百比丘尼の墓と伝えられています。室町初めの「観応元年」との銘があります。

整備前に、正しい姿は損なわれており、発掘調査においても、石等の発見は無かった為、現在確認できる一番古い資料「七湯の枝折」(文化8年 1811年)に描かれた姿を元に再現したそうです。


ちなみに、八百比丘尼と聞いても、イマイチピンとこず、調べました。人魚の不老不死伝説の人だったんですねタラー


磨崖仏(俗称応長地蔵)
応長元年(1311)造像願文が彫られています。
整備前は、山崩れにより下半分が埋まっていました。発掘調査により、石積みが2段見つかり、地盤改良の上、復元したそうです。

曽我兄弟の墓と虎御前の墓
右側の虎御前の墓には、虎御前の墓に刻られた銘文により、永仁3年(1295)に建てられたと考えられています。
ちなみに、虎御前は、曽我兄弟のお兄さんの奥さんらしいです。 

ちなみに、曽我兄弟の仇討ちは、日本三代仇討ちの1つで、全国的に影響を与えた為、全国に墓が点在し、敵討ちをした地と伝わる富士野周辺には、曽我八幡宮や曽我塔があり信仰対象となっている。

磨崖仏(俗称二十五菩薩)
東側


西側


キリークも読めます
国道1号を挟んで東側3体と西側23体の磨崖仏が彫られている。
各所に亀裂があった為、3次元解析をした所、震度5の地震で倒壊する恐れがあった為、アースアンカーで固定し、亀裂を充填・接着し、発掘調査により、5メートルほど埋まっていたことがわかった為、当時の高さまで掘り下げ菩薩像を仰ぎ見る形に復したそうです。

野ざらしに晒される石仏ですが、歴史的観点や科学的な視点を踏まえ、作られた当時の状態を維持する大変さを考えさせられる場所でした。

都市部より、箱根は5度くらい低く、紅葉は綺麗でしたが、寒くて車に積んでいた、仕事用のレインコートなどで防寒しました。

次の世代に残す為に、できるだけ、そのままの形で文化財を残しておきたいものです。
自治体などのサポートはもちろんですが、1人1人が何かできる事を考える必要があるのかなとも思いました。

もしかしたら、観光で財源のある箱根町だから、復元できたのかも知れません。

貴重な文化財を観たなら、そこの都市に、お金を落としていくことが、保存に繋がるのかもとか思う1日でした。