九州被災地の皆様、そして犠牲者の方々に鎮魂の祈りを捧げます。
この困難を乗り越えて災害の終息と復興を心から願っております。
まるで屈強の兵の如きキャピタル…熊本城。
城主の加藤清正は、賤ヶ岳の戦で武功も凄まじく、
セブンス ランサー『七本槍』として名を轟かせるほどの若き武将。
1588年(天正16年)侍大将だった清正が、大抜擢で肥後北半国の領主になりました。
清正は当時27歳の若武者、19万5000石で一国一城の主誕生です。
越中の虎狼…佐々成政も肥後統治では失態を続け、後任として清正が征く!。
まるでチューニングカーのように工夫と知恵を凝らした名城の天守閣と本丸御殿も無敵。
西南の役(西南戦争)の際…薩軍からの砲弾は本丸まで到達できずに終わる守りの城。
しかし開戦3日前の謎の出火で1877年(明治10年)如月…全焼しています。
(一説では籠城に挑む兵士が士気を高めようと焼いたとも…心が折れてはなりません)
いまも天守閣址の石垣にある痕跡は熱剥離ですが、その際の痕跡でしょう。
時空を超えて民衆を守ってきた肥後の名城。
そうした熱い県民の心の支えであった熊本城が地震で崩壊する様子は衝撃的でしょう。
せいしょこさんのさしたこつ
(清正公のなさったこと …という意味の熊本弁。 称賛と感謝です。)
肥後に入国してからの清正は、その若き才知を存分に生かし難題に挑戦していきます。
分からず屋ばかりの土豪である国衆(こくしゅう)を含め人を統治するのも至難の業。
戦乱により荒廃した国を立て直す苦難の道程。
まずは治山治水で水源を確保し、新田開発も懸命に取り組みました。
地の利を高めたビジネスチャンスで南蛮貿易にまで着手します。
電気も通信も無い数百年前に彼は肥後の領地を富まそうと知恵と勇気で戦いました。
善政の事跡から領民には生き神様のように慕われた加藤清正公を忘れてはなりません。
いまこそ皆さんは勇気を奮い立たせて立ち上がる時なのです。
皆さんひとりひとりが現代の清正公なのです。
『せいしょこさんのさしたこつ』のスピリッツを忘れずに。
日本中が全力でお救いしようと団結します。
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