平成27年の弥生…三月、金沢城公園内に新設された日本庭園がありました。
今回ご紹介したい『玉泉院丸庭園』は、金沢城公園の新名所。
寛永11年(1634年)加賀藩三代藩主の『前田利常』による作庭から始まりました。
名君の誉れ高い利常公のプロジェクト?は引き継がれ、五代藩主『綱紀』、そして
十三代藩主『斉泰』などの歴代藩主により洗練されてきました。
明治の廃藩時で埋められるまでは、金沢城内にある玉泉院丸に存在していた庭園。
『兼六園』が饗応の場なら?藩主の内庭とも呼べる最もプライベートな庭園でした。
まさに加速する伝統と技…着々と金沢城は美しい全景を取り戻そうとしています。
市内の要所である広坂の『しいのき迎賓館』から一望できる城郭の近く。
金沢城から南西側を囲む豊かな水を湛えた外堀である『いもり堀』の復元エリア。
その左手に進むと、加賀の藩政時代を代表する優美な庭園が出現します。
玉泉院丸庭園
池泉回遊式となる大名庭園であり、水源には城内に引かれた辰巳用水を活かした設計。
立体的な造形が用いられ、池底から周囲の石垣最上段までは高低差22mもあります。
滝までも演出された意匠など、いかに独創的な庭園であったかと考えられます
平面的になりやすい庭園のレイアウトですが、玉泉院丸庭園は立体的ですね。
単なるラウンド形状よりも地形に起伏をもたせた自然の山河のような抑揚が美しい。
優雅な曲線で構成された池泉回遊式の庭園には高い美意識が注がれていました。
週末になりますと夜のライトアップがあり、浮かび上がる幻想的な景観も美しい。
伝統的で最も新しい金沢の夜景が堪能できるのでした。
玉泉庵
とても趣のある柿葺きの数寄屋造りという凝った庵ですね。
江戸時代ならば、露地役所(庭を管理する役所)の場を休憩所にしたそうです。
上方の木々の向こうに見えます白い建物が、お城の『三十間長屋』。
加賀藩の風雅は、歴代の藩主により愛でられた意匠性に富む石垣群にも表れます。
庭園を一望すれば、色紙短冊積石垣などを借景にした見事さは格別ですね。
玉泉庵では、美しい着物姿の女性が奧の和室へともてなしてくださいます。
畳を敷いた広間にて…ガラス越しに庭園を眺めながら当時の武家の嗜みを想い
点てられた抹茶と季節ごとの和菓子を美味しく召し上がれます。
ここだけにしかない特性オリジナル生菓子がお目当ての方も多いはず。
慌ただしい日々、スタバのコーヒーよりも潤される和の余韻に浸りたいのでは。
たまには正座して、九谷焼の器で呈茶され心静かな時間などいかがでしょう。
花や床の間の掛け軸にも深みのある四季の風情があります。
玉泉庵
朝は九時から 午後の四時まで受け付けています。
さりげない満足感のある上質な憩いのひととき …720円です。
(お茶会などでは専用利用の貸切りにも対応してくれます。)
二代藩主の前田利長の正室であった玉泉院が屋敷を構えたことにより
この一画は『玉泉院丸』と名付けられてきたのです。
これほどの庭園も一部の城郭も明治期には政府命により廃絶されていました。
永く…その面影は失われたまま土中に埋没していたのですから。
平成20年からスタートして5年間に及び実施された発掘調査の成果。
残された文献や絵図などを参考に作庭の類似事例に基づいた復元計画です。
庭園の整備工事は平成25年5月に着手されました。
遺構を保存するため全体的な盛土で覆い、上に庭園を造成していきました。
玉泉院丸一帯の整備のため外周の石垣修築や入口部の整備が施行されました。
発掘調査や古絵図等を手掛かりに庭園の中心地形は求めれています。
大小ある中の島は、遠近感や角度により不思議に変化する見どころの一つ。
紅葉橋から南側にある半島や池、島などの地割りを再現したのですね。
池の水源は辰巳用水により貯えられた、城の『いもり堀』から揚水しています。
段落ちの滝
発掘された遺構から再現された滝
以前からの調査の結果、高低差が七メートルもある四段の滝が確認されていました。
江戸時代の金沢城には、二の丸を通ってきた豊富な辰巳用水の水が色紙短冊積石垣の
下部前面にある滝壺から地中の水路を経て滝の水源になっていたと推定されます。
明治期の庭園廃絶で、滝の景観を構成していた一部の石が抜き取られていました。
遺構の痕跡に従い、当時の寸法や形状を再現する作業
そうした景観を今に蘇らせるべく石の配置も補完されたのです。
そして金沢城の愉しみのひとつ…それは様々な石垣巡り。
数寄の石垣
天正11年、前田利家の入城後から本格的な石垣づくりが始まりました。
城造りのスーパーバイザーとして指導したのはキリシタン大名の高山右近です。
城門や庭園といった場所に応じ、石垣のデザインにも特殊な技術が施されました。
玉泉院丸付近の石垣創建は、寛永の時代といいますから1624年頃に遡ります。
享和元年(1801年)から文化5年へと幾度もの改修により現在の姿になりました。
戦国時代からの変遷を辿るように特徴ある工法を広大な城の各所で堪能してください。
その時代ごとの趣向を凝らした石垣の表情、こんな高度な面の加工技術は江戸時代。
切り込みハギの石垣には積み方や高さに於ける苦心の痕が見られます。
この先へと登ると第二次大戦中には、第六旅団の司令部が置かれていました。
城は歴史上の戦禍もくぐりながら…こうして存在しているのですね。
石垣づくりに関わる秘伝書、石切り出しの丁場、その石引き道があることなど
まさしく石垣に関する歴史資料や環境が揃っている状況を鑑みて…またの名を
金沢城を『石垣の博物館』と呼ぶ人々もありますから。
守りの要に…費やされた大変な労力、石垣の機能とは興味深いものですね。
されど外様大名の悲しさ、防衛事業(戦闘時の)の堅牢さは幕府に危険視されるので
普請奉行以下の石材確保を委ねられた石垣方組織も苦心したことでしょう。
どこか美観を前面に出した意匠を迫られるのも…いたしかたない。
(現状の日本で言えば専守防衛みたいなものかも)
ああ…見事な美しさ、智慧ある老木の樹齢は何百年か?
こうした樹木を真の友にしたいと願う私です。
隠れた城のキーパーソンかもしれませんよ、歴史の証人なのでしょう。
涼しい木陰には板張りの階段…通路が二の丸へと
ひっそりと…シャガ(胡蝶花)が咲いています。
加賀の地で風雪に耐えながら、いまこの時を迎えた石垣の役目は
苔ひとつまでが歴史のメモリアル…
家中における人々の幸せも不運も冷たく語っているようです。
玉泉院丸庭園から坂の小路を登ると明るく広々とした空間に…
旧二の丸跡は『菱櫓』(左)から『五十間長屋』が連なります。
そして再現工事が完成したばかりの『橋爪門続櫓』(右)が現れます。
『菱櫓』は、濠のある表側からの写真が多いですね(上の写真・左)。
まずは大手と搦手を見張る物見櫓である橋爪門続櫓。
二ノ丸大手の橋爪門枡形の物見櫓までを見張れるのです。
四季により刻々と変わる金沢城の表情…

近年、再建されたばかりの『橋爪門続櫓』二の門(上の写真・右)の姿。
この両方の櫓を二層二階の構造をした『五十間長屋』で長くつないでいます。
流麗な建物に見えますが、いざ戦の際は二ノ丸を死守するための防壁になります。
狙い撃てる鉄砲狭間となる格子窓や石落しが備えられているのです。
白塗漆喰壁と海鼠壁は最良の防火構造を施された強固な外壁なのでした。
金沢城の広い敷地には、まだ見ぬ旧跡と秘密が眠っています。
記録によりますと『鼠多門(ねずみたもん)』などの城郭建築物も確認されてます。
『玉泉院丸庭園』も引き続き新事実と復元に取り組むそうです。
加賀百万石の栄華を今に伝える金沢城公園
戦なき世が到来し、人々の憩いの場として永く愛されていくことでしょう。
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