仰ぎ見る大空    青雲の志




 画聖”とすら呼ばれる長谷川等伯は、桃山時代のマエストロ(巨匠)でした。


都で絶大な力の主流『狩野永徳』のファクトリー狩野派”と真っ正面から対抗した絵師です。


優れた才能を惜しげもなく振るう姿は、ある意味…傾奇いた”絵師だったともいえます。

まったく、あの前田慶次郞といい…加賀や能登の国には、凄まじき者が存在した時代でした。


己のことを『雪舟五代』と名乗り、長谷川派の長として絵画史上に名を残した絵師です。



なにを訴え、描こうとしたのか!戦慄の魂の絵師”ここにあり。

その洗練された筆致にみるように、いまも時代を超えて語りかけてくるのです。









信春”さまを御存知の方はおられませんでしょうか?。


あれは1539年(天文8年)に遡りまして候…。

戦国大名として、当時の能登国を治める畠山氏がおりました。


その家臣のひとり『奥村文之丞宗道』の実子として世に生を授かりましてございます。

(現在の石川県七尾市)

能登は七尾の地に生まれ、ご幼少の頃…奥村文次と申します染物職を営む人物の紹介で

信春さまは…染物屋『長谷川宗清』の元に養子として迎えられました。



ここ能登の七尾では『長谷川信春』と名乗り、日蓮宗の信徒として暮らしながら…

依頼があると肖像画や仏画などを描き、絵師としての腕を磨く日々でした。

そんな信春さま(長谷川等伯)も幾度かは七尾と京都の間を往復もしたようです。

京都には法華宗信仰者も多く、絵画の図法から技まで町衆からも学んでいたのでしょう。





20歳~33歳頃は、能登の国で学びながら…


彼の知られる作品は、若き日…1564年(永禄7年)20歳代の半ばに描かれたもので

既に才能の萌芽を感じさせる見事な筆使いが素晴らしい仕上がりです。

(残念なことに現在は、故郷の能登でも僅かな作品が残るだけといいます。)


いずれの作品にも袋形”をした『信春』という印を捺してあることから、若き頃の彼が

信春』という雅号であったのでしょう。





信春さま(長谷川等伯)が暮らした頃の七尾は、庇護している畠山氏によって繁栄の頂点

それは『小京都』などと呼べるほどでした。


当時、信春様さまの絵が、貴重な良質の顔料で描かれていることからも推測できます。

(これらの仏画の描かれた最盛期といえば、1000年も昔の平安時代からといいます。)



信春さまも法華信者として帰依し、情熱をもって創作していたと窺えるのです。

奥村家代々の菩提寺であります本延寺には、寄進した木造『日蓮聖人坐像』があり。

石川県羽咋市の妙成寺には、『日乗上人像』が現存しています。


また富山県高岡市の大法寺に所蔵の作品『釈迦・多宝仏図』、『日蓮聖人像』。

妙傳寺の『鬼子母神 十羅刹女図』、『三十番神図』が東京国立博物館が行った調査により

日蓮宗の影響を強く受ける長谷川等伯の作であることが証明されています。










30代中頃~40歳代は、京都や堺で修行三昧。


桃山時代…京の都と能登七尾には、想像以上の絆があったようですね。

戦国武将であった畠山氏の時代でさえ京都からは有名な文化人から僧侶までが来訪して

京都から先進の教養と文化が海上ルートにより伝わっていたと思われます。

越後の上杉家にも繁栄に共通点がありますね。


ですから著名な絵師の作風を垣間見るチャンスはあったでしょう。

毎年の恒例として法華寺院に務める住職が本山に出向くのは当然の倣い…

若き信春(長谷川等伯)さまも、法華寺院の住職との関係で京都まで出向いたかもしれませんね。




彼が33歳の頃、大切な養父母を相次いで亡くし、上洛すべく妻子を連れた旅立ちは同時期?。

男性の平均寿命が40歳代という当時、遅咲きの都デビューでした。


さて、はるばる上洛後は、本延寺の本山となる本法寺に身を寄せました。

塔頭の教行院にて暮らしながら創作活動の拠点としたようです。

(本延寺の紹介もあるのでしょうか…)


いまも本法寺所蔵となる日堯上人の肖像画『父道浄六十五歳』が現存しています。


そこには『長谷川帯刀信春三十四歳筆』の文字、款記と袋形『信春』印もありました。

若くして急逝された日堯上人を描いた作品です。



何もかも新発見がある京都、権力者の寵愛を受ける絵師『狩野派』に一度は学ぶものの

後には袂を分かち、熾烈なライバル意識が芽生え、その様式を凌駕すべく立ち上がります。

独自の作風を研鑽していく信春(長谷川等伯)さまの意志を感じますね。









桃山時代の茶人といえば『千利休』。

天下人秀吉や、そうした茶人”が一世を風靡する風流な武家社会でした。

長谷川等伯も頻繁に京都から堺の港へ往復しながら学び、大陸(中国)の絵画に精通した…

その熱意で吸収していったことでしょう。 彼独特になる画風が確立したのもこの頃。



前田慶次郞の振る舞いを書き留めた貴重な書が『可観小説』だとすれば…


長谷川等伯の語る徒然を書き記した『等伯画説』は、本法寺住職日通の書物です。

敬愛する雪舟など日本の絵師への主観や、学んだ大陸の南宋と元時代などの絵の題材について

彼の地の画家に対する言葉がまとめられています。








50~70歳代(享年78歳)の晩年まで京都を舞台に果敢な創作活動を続けました。


京都の本法寺には、本法寺第十世である日通上人の綴る『等伯画説』が残っております。

晩年の等伯、彼自身が語る絵心(芸術論)の事々を書き記した画系譜から…

七尾で養父であった宗清も絵師であった可能性が出てきました。

長谷川等伯の若き日、父の宗清から手ほどきされたのかもしれませんね。






長谷川等伯…72歳の当時(慶長15年)、徳川家康により江戸に招かれました。

この年齢で江戸まで旅をするのは相当に大きな負担でした、命懸けの道中でしょう。


まさしく長谷川派の命運すら変えるほどの下向でした。

残念ながら病魔に冒され…江戸に到着しながら翌々日に無念のまま亡くなられています。




長谷川等伯を失った長谷川派の勢力は、有力な後継者や弟子がなく衰退していきました。

等伯の三男である宗也、四男の左近などは屏風絵をはじめ絵馬や扁額も残しています。


派を超えて学び取り、父譲りの創意工夫を大切にしたことでしょう。







江戸時代の記録を辿りますと…長谷川派に属する絵師は、城内の障壁画を描く仕事で…

狩野派と参加していたと記録があります。

後世まで、彼らは国中に絵師として活躍し描き続けたものと思われます。



幼き頃より一心に描いた絵師としての情熱が多くの人々の心を動かした。

ひとりの男の筆が、桃山時代の美を描ききった実に見事な生涯です。







          ※この像は、JR七尾駅前にあります。







       七尾美術館 グッド! クリック












   お願い☆ 記事の無断複製・転載はご遠慮ください(^-^)/。