やせ蛙まけるな一茶これにあり

  (弱々しく痩せたカエルがケンカしている…負けるなよ、この一茶がついておるからな)


  江戸時代、三大俳人として名高い小林一茶の詠んだ俳句です。


平成25年(2013)、彼の生誕250年を迎えたのは長野県信濃町出身の俳人小林一茶

その産土(うぶすな)である信濃町を訪れてみました。

この世界の森羅万象を愛でながら、俳句の美しいリズムに変換(かえ)る一茶の心象風景に触れてみます。







宝暦13年(1763)のこと、信濃北部の北国街道柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)にある農家で長男として生を受けました。

本名は『小林弥太郎』さん。

まだ幼い3歳の時、生母を失っています。

8歳になると父が継母を迎えますが、どうしても継母には馴染めないナイーブな弥太郎少年。

安永6年(1777年)、14歳になると江戸へ奉公に出されることになりました。

俳諧を学び始めたのは20歳になってから…


師事した人物は葛飾派三世の溝口素丸、今日庵森田元夢、二六庵小林竹阿などに学びました。







小林一茶が終の棲家とした旧宅横には特産品を扱うドライブインの駐車場があり。

そこに立てられた大きな一茶の銅像を見上げてみました。

よく人々がイメージする彼の雰囲気が表れていると思えます。


当時の彼…小林一茶(弥太郎)は、奉公のために江戸に向かい長く暮らしておりました。

しかしながら、今日のように一茶のプライバシー記録に至るまで公表されるようには詳細も不明で、どう生きていたかは窺い知れぬのが真相です。

ほんとうは私生活など触れずに、そっとすることが礼節からしても正しいと思えますが。

後世の人間は何かと…墓荒らしの如く死者の人生を覗き見するような風潮が恥ずかしい。

そんな風に思うのは私だけでしょうか。



一茶の魅力を話す人々が、研究のためだからと…彼の人間性は侵している?不思議。

大衆の興味本位の愚かしさと品位の境界線は曖昧なのか野卑なのか。

白衣を着せても研究もできない人間が、他者の成果に妬くのと同じ意識でしょうか。



割烹着姿の小保方晴子さんに、群がった民衆の意識と比較してしまうのですが。

遺伝子も塩基配列すら分からない人達だけれど、最後にはパパラッチ同然か集団ヒステリー扇動。

(とやかく言う前に、皆さんも自分で研究して御覧になれば。)

小林一茶が生きていれば滑稽な民衆の様子を…辛辣な俳諧で表現してくれたでしょうね。








   それは生きることが俳諧だった…


日々の暮らしも窮する江戸生活。

孤独であっただろう思春期の一茶(弥太郎)には、俳諧の表現は新鮮に思えたでしょう。

シンプルに天地自然まで詠み込める…五七五のライフラリズム。

社会に対する負の感情、心の痛み、不満、ささやかな悦び、望郷の念…その胸に秘めた想いも。


なにかと庶民には不自由な江戸時代、人との出会い…俳諧を知ることになったでしょう。

感性も豊かな彼には、汲めども尽きぬ井戸のようにイメージが湧き、稀代のセンスが磨かれた。

自由闊達に俳句を詠むことは、それまで苦痛と忍耐の青春に訪れた光明だったはず。




小林一茶が生涯に詠んで書き残した俳句は、なんと二万句にもなるそうです。

近代の俳句というものの体系に影響を与えているのは間違いないでしょう。

(松尾芭蕉の千句、明治時代の正岡子規が異例の二万数千句を残したことにも及びます。)


日本人が俳句を詠む時、大半が…松尾芭蕉か小林一茶のリズミカルなスタイルを踏襲している気がします。

まるで音楽のように、霰が頬に当たるような心地よさ…日本人には馴染めるピアノ曲のよう。







陰鬱な継母の口減らしであろうと、江戸へ出奔したことは小林一茶の才能を萌芽させたのです。

若者が内に持つ情念も押し殺しながら生きることから鑑みれば、まさしく魂魄のリバティー(開放)。

なんという人生、何が好転するか解らないものですね。

弥太郎少年は、意図せずして花鳥風月への印象を伝える言の葉まで後世に一大変革をもたらした。



俳句を老人の趣味と思う皆さん、若者の豊かな感性こそが俳諧を嗜むべき。

若き日の一茶がそうであったように。  自然界の陰陽を爆縮する心の方程式。


  5  7  5  シンプル イズ ビューティフル!




松尾芭蕉もそうですが、若かりし小林一茶も健脚のようですね。

(芭蕉は忍者ではなかったかという奇天烈な説までありますから)


寛政3年(1791)彼が29歳になる頃、14年ぶりに信濃に戻っています。

現在なら高速で素早く移動できますが、まさしく当時は過酷な旅でした。

『寛政三年紀行』は、この後に書かれたのでしょう。


素晴らしい俳句が生まれるのは、まさに…こうした固有の時間観念からなのでしょう。

見つめあう恋人と過ごす一分が、とても永く続いていると感じられるように…

遅刻しそうな時、焦り校舎まで走る時間が短く感じるように…。

雪融け水に触れていると…そこまで歩いてきた疲れまで忘れてしまうように。





信濃に帰郷した一茶は、その翌年より旅立ちました。

人生の齢…36歳になるまで俳諧の修行として彼は遠い西国を目指します。

歴遊したのは近畿から四国地方、さらに九州にまでも旅したといいますから。

そこに住む人々の暮らしの息吹、どんな酒を飲み…どんな夢を見ているのか…旅の空。


旅先で出合った俳人と詠んだ俳句は、『たびしうゐ』そして『さらば笠』といった句集にまとめられます。









イタリアのマルコポーロが前人未到とも言えるシルクロードを旅したように。

哲学者の遠大なテーマのように…旅とは人生観を変えます。



小林一茶が西国の旅を終えた後…彼は39歳、享和元年(1801)に再び帰省します。

故郷からの便りで病気を患い苦しむ父を見舞い、手厚く看病しましたが…間もなく御逝去。



ところが父の死後、家族との軋轢に苦しむことになろうとは…。

遺産相続に関する争いで継母と衝突を避けられず。 12年に渡り貴重な時間を費しました。

忌まわしい継母との記憶に苦しめられたことでしょう。



世に知られる『父の終焉日記』とは、理解者である父の発病を知り闘病生活から…

この世を去り初七日を迎えるまでの日々を克明に記録した文書でした。


そのような記録が残るのも一茶の磨かれた文才あればこそ。

客観的な観察、虚しくとも自らの手と筆で遺した。

後世の我々が知る一茶の人間像。






小林一茶が江戸から信州柏原帰郷したのは50歳の時、文化9年(1812)の頃でした。

ようやく信濃に帰り着いた一茶、終の棲家としたのは懐かしい土地。

老いた一茶が身を寄せたのは、兄弟が遺言で父より譲り受けた家財でした。



現在は、その庭にある質素で小さな土蔵が修復を繰り返され保存されていました。

街道沿いからは…ひっそりと少し内に入り目立たない場所ではありますが(そのほうが保全には有利)

あくまでも旧い民家の佇まいですから、ランドマークどころか神社や城郭のような標も定かではない。

周囲には観光関連の看板やドライブインなどが立ち並び、知る手がかりとなりました。








江戸でも大火は珍しくありませんが、不幸にも信濃に戻ってから柏原宿を襲う大火に遭いました。

文政10年閏6月1日(1827)いまなら7月24日のことでした。

この火災で一茶は母屋を失ってしまい、焼け残った土蔵で暮らすことになります。



そんな文政10年の霜月…11月19日、冷たい隙間風の土蔵で64歳の生涯を閉じたそうです。

彼の法名は釈一茶不退位。




歴史では苛烈な戦(いくさ)に身を投じる訳でもなければ、政変に翻弄された大物でもない。

誰よりも心の痛みを抱えながら、我々と同じ視線で平穏に生きた普通の人。

余韻の残る言の葉は…五、七、五…の小宇宙なのでした。










土蔵の茅葺き屋根は幾度も修理されながら21世紀にもカタチを留めます。

間口3間半、奥行き2間。

小林一茶の旧宅と… 石碑が立っています。


昭和32年(1957)国の史跡に指定されています。








果たして一茶の時代のままか?どうかは知るところではありませんが…

囲炉裏の周りに藁筵を敷いただけの質素な土蔵で息を引き取るなんて悲しい。

信州の凍てつく寒さの中での終焉(1828年)、その魂は優しい母の元へ帰れたでしょうか。







貧しく薄暗い場所であろうと、心は晴々としていたでしょうか。

後世には偉人と呼ばれる彼ですが、自然な心情こそが一茶の感受性を潤すチカラ。


もしくは…人間的な感情のままに… 家族と彼のみが知る苦難の人生。








 史跡 小林一茶 旧宅 配置図


平成14年12月  信濃町教育委員会が設置したプレート。






家屋敷や田畑は遺言で弟と分けています。  継母の生前は相続問題で争うことになりました。

一茶の俳諧も活動の価値も理解できない…ただ貧しく頑迷な継母には抵抗感になっていたかもしれません。


間口9間の屋敷を北半分は一茶が使い、南半分は弟の弥兵衛にと仕切られました。

そんな屋敷は柏原宿の大火で焼失してしまい、後に再建された間口4間半で奥行き4間の民家。









旧宅横にありますのは一茶の位碑堂『無量壽』 南無阿弥陀仏

お参りしました。













とても気持ちのよい風が吹き抜ける…

小林一茶が育った土地、歩いた庭… 旧宅を後にして街道のほうへ。





一茶が暮らしていた母屋の跡地には句碑が建てられています。

帰郷の際の彼の感慨を詠んだものだそうです。



   門の木も先つつがなし夕涼






小林一茶 生誕の地を訪ねて。      次は『一茶記念館』へと移動します。








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