上野恩賜公園 …日本では初めて公園として指定された場所ですね。


明治6年のこと、太政官布達で…芝、浅草、深川、飛鳥山も公園に指定されました。


ここは幕末まで、東叡山寛永寺の境内だったのですが、明治維新後には官有地になりました。


宮内省の管轄から大正13年に東京市へと下賜され恩賜という名称をつけています。




寛永寺の社殿や霊廟、そして東照宮など~広い境内には博物館から美術館、上野動物園などが造られました。


周辺の発展に際して悠久の日本文化を伝える公園エリアは拡充されていきました。



さて、涼やかな竹の台噴水から東側を見ると…医学会の巨人


野口英世博士の銅像が建立されています。



試験管を手にした白衣の御姿、医学に貢献した威厳ある先駆者です。








野口英世博士が生まれたのは、1876年11月9日のこと。


福島県耶麻郡翁島村(猪苗代町)で誕生され、幼名は清作さん。


彼は1歳半のころ、過って囲炉裏に落ち…左手に大火傷を負ったのです。


成長後に負傷した左手を回復すべく外科手術を試みましたが、遂に完治することはありませんでした。


こうして清作さんは医学の素晴らしさを知り、医師への道を志したのです。


野口英世博士は、直向な努力で才知の萌芽に至り、医学界へと進んでいくのです。


渡米、そして欧州の研究機関に参加し、当時の最新ロックフェラー研究所に務め1911年に梅毒の病原であるスピロヘータを純培養。


その成功により、世界的に名を知られる医学者となりました。


大正2年(1913)に、梅毒スピロヘータは脳から脊髄の組織内に潜むことを解明しています。


1914年にロックフェラー研究所の正所員に昇進し、東京帝国大学から理学博士の称号を得ています。


1915年、帝国学士院恩賜賞の授与が決まり、実に15年の歳月を経て帰国。


彼は地球規模で多くの人々の生命を救うこととなりました。









野口英世博士は、1918年に黄熱病の原体解明をすべく南米のエクアドルに赴きます。


病原となるのが螺旋状の単細胞細菌スピロヘータだと特定しました。


研究は進められ、黄熱とはワイル病と解りました。ワイル病スピロヘータと判定され、そうした功績から1923年に帝国学士院会に選ばれています。



その後も数多くの研究成果で活躍した博士は、母への親孝行でも知られる温かな医学者。


昭和2年(1927)、黄熱病を研究するために単身アフリカに赴きます。


しかし翌年…5月21日、アフリカのガーナで研究中に黄熱病に罹患したことで世を去りました。



永遠に世界に誇る医学者として尊敬されています。




生家のある福島県猪苗代町には野口英世記念館があります。


都内には財団法人野口英世記念会本部会館の設立。


亡くなったガーナのアクラに、野口英世博士記念医学研究所もあるのです。




野口英世博士が愛し救済した人々、そして深い愛情で育ててくれた母の存在。



いかなる偉大な人物もあればこそ…