能越自動車道の氷見インターから20分ほどの距離にある氷見市大境字駒首。
大境洞窟住居跡
富山県灘浦海岸に面する古代遺跡パワースポットです。
それは…縄文中期~近世にいたる時代に人間が暮らした洞窟の複合遺跡。
入り口幅は約16mで、奥行は35m、高さも8mほどあります。
『海食洞』と言って…波浪で侵食された洞窟で、第三紀鮮新世の石灰質岩盤。
いま現在、洞窟の床面は海面から約4mの高さとなっています。
発掘されたのは、遡ること~大正7年(1918)でした。
この洞窟遺跡は、『白山社』が祀られる祠でもありますが…縄文期の遺跡とは確定していませんでした。
社が改築されることとなり、その裏手にある地層から多数の獣骨、土器の類、人骨までもが出土すると大騒ぎ!。 考古学的な調査が行われることに。
さらに…東京大学の人類学研究室から来県した研究者『柴田常恵』さん達により詳細な調査が行われました。
ここには縄文時代から中世にかけて生活した人類の造り出した原始的な土器や陶磁器といった道具、縄文人の骨格、食糧として狩られた獣の骨などが次々と出土。
この当時に実施された調査。
それは日本初となる洞窟遺跡の発掘調査なのです。
なによりも…『層位学的発掘調査』の本格調査の結果、縄文中期から近世に至る多層構造になっています。
大正11年(1922)国から史跡指定もされています。
上下に6層もの文化層が発掘されて、いかに長期に渡り様々な人間が生活を営んでいたかが解りました。
弥生時代からの地層には人骨が20体以上も発見されています。
その発掘結果によって縄文文化から弥生文化への変遷までの時間差が判明しました。
縄文期に見られる特徴的な『大型石棒』や『石庖丁』など石器が出土しました。
後期旧石器時代からなら、天然石などを道具に生かした『礫石器』、原石を打ち欠きした『石核石器』も含まれ?。
自然の原石から打ち欠いた『剝片』(はくへん)を用途に応じて加工していく『剝片石器』など3種類があります。
弥生人骨を分析すると、抜歯の風習や顔面装飾(頭骨に赤い塗料が付着していたそうです。)が確認されて注目を集めました。
日本考古学史上に残る遺跡として評価されました。
赤は古代から魔除けの色…
この住居遺跡は、氷見市大境漁港に祀られています『白山神社』の裏手にある洞窟内。
ここには豊かな海の幸があり、風雨を避けられる洞窟は居住に適した環境だったのでしょう。
近代に至る歴史の中で、古代の縄文人から受け継がれながら~棲み心地は良いでしょう。
こうして神社が祀られる経緯は知りませんが、文化が遷移することで滅ぼされたか?追われたのか(それとも放棄されたのでしょうか)謎は深まります。
良い環境ほどテリトリーの奪い合いは常かもしりませんが…。
ここで過ぎ去った時間は…私達からすると途方も無い長さなのです。
(多くの出土品は、氷見市立博物館に所蔵されています。)
真冬は風雪激しい海岸の神社ですから、鳥居…そして注連縄には潮風の塩害による風格が。
気のせいか…この鳥居をくぐると…大気が重い…
やはり…ここも狛犬は独特。
まったく同じ姿をした狛犬くんはいないのでしょうね。
阿吽…それぞれの狛犬…
古代の世界では神獣の開明獣などスフィンクスと同様な守護。
シュメール文明のスフィンクスなどは、エジプト文明とは異なるデザイン。
(勿論、狛犬くんのお仕事は神社の境内をお守りすることなのですが…)
『白山社』 …まるで正倉院のような高床構造。
屋根は改装されていますが、やはり木材には海からの激しい風雪の痕跡が…
この神社も時代を経た物でしょうが、その背後にある洞窟の奥深くには原始の大気が満ち…
この場所は、『洞窟住居』の遺跡ですから快適ですが。
多少の風雨を防げるだけの岩陰を棲家にした遺跡もあります。
世界中で発掘された古代人の遺構、なかでも『岩陰遺跡』と呼ばれる大きな岩陰。
福井洞窟遺跡、下本山岩陰遺跡は長崎、栃原岩陰遺跡は長野県…など。
国外ですと、ムスティエ遺跡はフランス、サンタ・マルタ岩陰はメキシコ…
トケパラ洞窟遺跡は南米ペルーなど、欧州や南北アメリカ大陸に多いのです。
(岩陰に沿うように暮らした遺跡)
こうした洞窟の入り口、天然の構造から天井などの岩盤が屋根代わりとなり風雨を避けられます。
外界の光も差すため、旧石器時代~新石器時代の人類にとって居住に適した地形でした。
岩陰は、洞窟の入り口同様に利用されるために、洞窟の入り口を利用した遺跡のカテゴリーに含められて洞穴遺跡(どうけついせき)と呼ばれます。
縄文時代後期から…近代に向けて気候は大きく変化していきますから。
洞窟…手前の岩陰は崩壊の落石を避けるための防護ネットが張られています。
小さな『祠』は、洞窟の雰囲気に違和感を与えています。
祀るというより、『畏れ』を封じているような…この佇まいは…。
この奥深い…洞窟の奥は?危険で立ち入れませんが。
這っていけば…かなり深奥部まで空間があります。
縄文人にとって重要な拠点でもあり、忘れ去られた神聖な場所なのでは…
古代の宗教儀式も行われた久遠の波音が満ちているような…
あたかも異界への入り口のような、…深層のウテルス(子宮)に続く洞窟…。
遥かな大昔、ここは海底洞窟だったからでしょうか。
ここは露出して当時の面影を残していますが。
いまでも崩壊して入口が埋もれた洞窟遺跡は多数~眠ったままかもしれません。
周囲には洞窟遺跡の説明パネルが並べられています。
地層年代の6層それぞれ (下層ほど古い時代です。)
第1層
中世~近世の土師器・陶磁器・鉄刀などが高度な道具が発掘されました。
第2層
奈良~平安時代の須恵器・土師器などの破片までは予想通りでしょうか。
第3層
弥生時代終末期~古墳時代初期の土器・骨角器、貴重な人骨や動物遺体。
第4層
弥生時代後期~終末期の特徴的な土器、人骨そして動物遺体など多数。
第5層
縄文時代晩期後葉~弥生時代後期の土器・石器・骨角器、人骨と動物遺体。
第6層
縄文時代中期中葉~後期前葉の素晴らしい土器と石器、動物遺体の骨格が出土しています。
この一箇所から、これだけの年代の出土があるだけでも驚異です。
やはり蝦夷の棲む忌むべき場所とされていたのでしょうか?。
洞窟の祠の脇に放置されている新しい時代の石像など…右から?おおよそ
『五輪塔』、密教の教えでは宇宙の生成要素である地・水・火・風・空という五大を、方・円・三角・半月・団形に表した五輪図形を立体化したものです。
平安時代後期に確立しました。 氷見地域では室町時代以降のものが多く、水輪部に金剛界大日如来の種子『バン』の一字を刻んだものが多く見られます。
『板石塔婆』、板石に仏像が彫られています。 梵字へと変化したもので、造形化は11世紀に始まります。
氷見周辺地域でみられる板石塔婆は、自然石~割石を利用したものや石の頂部を方錐形に加工する角柱に種子を刻んだ方錐角柱形(オベリスク状)にしたものがあります。
『如来形坐像』、高さ60cm前後の自然石板石あるいは割石の上半部に如来形坐像を中肉彫したものです。
頭部の肉髻を高く表し、肩は張り腹部の中央に手を寄せた表現が一般的です。
その多くは下半身が省略されています。
手の位置を見ると弥陀定印となり、多くは阿弥陀如来と考えられています。
14世紀に成立、15世紀代には盛んに造られ、16世紀までも続いています。
薮田石製のものだけでなく富山県西部では、粒の粗めの岩崎石や太田石製のものが多く、氷見市を中心に高岡市~射水市にかけて広がっています。
…そうした石の由来は?。
まだ、知られていない…この洞窟に関わる伝説があるのではないでしょうか。
後世の信仰は、当地の漁師関係の安全祈願なども含めて複雑に層を成しています。
この洞窟で生きた様々な人間達の喜怒哀楽…争い…四季と人生
一瞬…精神(こころ)の連鎖に触れたような気がしました。
ここで産声をあげた赤ん坊…神話よりも古い物語
洞窟の奥から…聴こえてきませんか、彼等(縄文人)の情念…憎悪…歓喜…
さあ、知られざる不思議な洞窟が貴女を呼んでいます。