元和2年 西暦1616年 4月17日巳の刻 徳川家康が駿府城にて死去されました。
(享年75歳)
神格化されて…東照大権現となり東照宮へと祀られ…
家康のブレーンで、謎の僧 『天海大僧正』の指導による江戸の開発など…
(正体は明智光秀…とも囁かれ、風水を駆使した都市…江戸の成り立ち)
幕府と徳川家の磐石な地盤は、着実に体制を成し遂げていきます。
信仰の対象となり、後の世まで見通すような緻密な指示と周到さ…
どことなく…地味な家康タクティクス!。
この東照宮の意匠には…そんな彼との違和感を拭いきれません。
一度拝めば、生涯~忘れませんね(間違いなく)インパクト絶大。
この荒涼とした土地が激変したプランは徳川幕府の体制に欠けているカリスマ性を補完するため。
かつて…織田信長が安土桃山城を国会議事堂のように集権国家の新たなシンボルに昇華すべく建設。
従来の権威集団(都)から乖離した新たな拠点…下野国(しもつけのくに)都賀郡(つがぐん)日光山を中核とする大衆心理の懐柔。
人里から遠く離れた異質な地に白羽の矢を立て、絢爛豪華な一大霊廟を構築することで参拝者を圧倒する。
幾千の破壊と死を見せられてきた民衆に…顕示する斬新な価値観。
参拝により日常化される幕府への崇拝にも似た恭順さを養う働きか…。
『鎖国』の中で、特定の価値観を封じ、内需に特化させた管理社会。
ドメスティックな時代よさらば
猿を彫る、猿を画く。
昔の絵師も霊長類ならばモチーフとして観察できました。
さすがに、克明に描かれ尚且つユニークな表現の巧みさに感服します。
上神倉…です。
どの建物にも精緻な彫刻や色使い…
威厳と美術感の不思議さ。
江戸時代という背景で、よく~これだけの冒険的なデザインを達成しましたね。
(象の絵…見えますか?)
かなりというか、相当に実験的な要素が随所に取り入れられた寺社の代表。
最も慎重で保守的な天下制覇イメージが強かった徳川家康を祀るにしては、
あまりに新しい価値観を漲らせるのですけれど…。
旧来の日本的な霊廟とは思えない、亜近代?とも言える芸術性。
太閤秀吉は、天下人となっても…自分独自の価値観が提唱できず、権威者の模倣に終始。
ルソン島の粗末な壷を、自分が認めれば高価な価値があるとして莫大な値段で扱わせたのも~そんな欲望から。
他者の価値観に意識が支配されたからこそ、黄金の茶室を設えたり暴挙も繰り返した。
権勢を誇りながら、強力な支配体制を維持出来ずに滅亡しました。
そういう意味で、民衆や武家の意識改革に重点を置いたイメージ戦略の徳川幕府。
従わせるものを明確にさせる…サプライヤーも独占する密閉型の管理社会を形成します。
(数世紀後には逼迫して崩壊しましたが、黒舟来航が無ければ江戸時代は続いたでしょうか?)
見る者の…心を捉える兵法?とでも言いますか。
さすがは徳川殿だ。(まさに家康イズム!)
南蛮鉄燈籠
伊達政宗侯(六十二万石)の奉納で、ポルトガルから鉄を運んで鋳造したもの
境内燈籠の中では最も有名です。
伊達政宗は、関ヶ原以後の日本では外様扱いの大名ですが。
苦難を重ね、知恵を駆使して開拓しながら領国と民を守り国を富ませました。
幕府と徳川家の信頼を勝ち取るべく並々ならぬ知略と忍耐を強いられました。
彼にとっては…それも『いくさ』であったのでしょう。
幾度も江戸や幕府の窮地を救った大名となりました。
やはり大剛の武士です。
それにしても武骨な男らしさ…個性派です。
袴腰月鐘楼
名称から外観の形の理由が推測できませんか。
こうした特徴に面白味があります。
手前の杉の老木と比較すると…それぞれ大きさが解かりやすいでしょうか。
獏…の造形が良いですね。
狩野探幽ほどの優れた絵師達でさえ、見たこともない?異国の象や獏の姿。
大きな獣だから、想像して描く未知の対象にも興味深い特徴が生かされています。
長いお鼻や大きな耳、体毛は牛馬や熊などを参考にしたのでしょうか?。
独特のデザインに苦労の痕が窺われます。
現代なら、恐竜の復原図のように。(龍などは架空の生物、全くの想像図)
でも?恐竜にも体毛があったという学説もありますしね。
陽明門
日光東照宮の象徴ともいえる陽明門は、
寛永12年(1635)に建立されました。
陽明門という名の由来というと、京都御所は十二門で東の正門が陽明門と呼ばれ、その名から授かったそうです。
唐破風下の額である『東照宮大権現』は、後陽成天皇から元和3年(1617)に賜ったものなのです。
彫刻の数は500体以上もあり、麒麟や竜、獅子などの絵や彫刻が極彩色に飾られています。