数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

男性でも数秘を学んでる方はいます。Naoyaさんが岡本太郎さんを卒業課題に選んだ理由は自分もアーティストとして活躍していきたいという夢があり、巨匠と言われる岡本太郎さんの持つ情熱の秘密を知りたかったからだろうと思います。

2つの道があれば困難なほうを選んできた…という岡本太郎さんから学んだものはあったのでしょうか。

(2019年10月のものです)

 

 

岡本太郎

〜歓喜の芸術家〜

 

生年月日:1911/2/26

 

神奈川県川崎市高津区の生まれ 父は漫画家の岡本一平、母は歌人で小説家である・かの子との間に長男として生まれました。 父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠という芸術一家の出身。

 

 

 

◆ Birth 誕生数 (生まれ持った資質・性格・個性・生きる姿勢や才能) #4(22・13)

#4は人生や生活の基盤となる形を作り、安定、継続させるナンバーです。

 「自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。」 

生涯を通して常に自分や人生と真剣に真正面から向き合った、岡本太郎という存在の#4らしい基盤となる 言葉だと思います。

 

#13はカルミックナンバーで創造と破壊を繰り返し 常に学びを喚起させられるナンバーです。 障害のたびに変容する修練を経験し、カルマの負債を清算することになります。

#13らしい言葉として、

「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」や、 「不動のものが価値だというのは自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎないんだよ。破壊こそ創造の母だ。」 と述べている通り、様々な人や作品と出会い、衝撃を受けるたびに考え方が変わっていきます。

 

#22は、天と地のかけ橋となるマスタービルダーというカリスマナンバーです。

強い感受性を持ち高い理想を現実化でき、ゼロから無限を創り出せるナンバーです。

前人未到のチャレンジや、大改革をしていくこともできます。

#4の人より強運に恵まれていますので、学びの機会(試される)として障害やトラブル にぶつかり、波乱の人生になることも多いです。しかし、そうした障害を克服する力を持っており、克服したのちに#22の安定感とパワーの源が内側にもたらされます。

あらゆる分野の創始・開拓・指導・権威者を目指せるとともに、現実社会での大きな事業への取り組みをしていくことと思います。 

また、海外に縁のある数字でもあり、父の一平が朝日新聞の特派員としてロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになりました。

太郎も東京美術学校を休学後、父母に同行して渡仏し、約 10 年間をパリで過ごしました。

太郎も#22らしく国際的なアート集団の日本支部の立ち上げに関与したり、国家規模のイベントプロデ ューサーに任命されるなど大きな事業へ取り組みました。

また、持ち前の強い感受性を生かし、芸術家としてたくさんの作品を創作していきました。

 

 

◆ Destiny 運命数 (表面意識・人生における使命や目的・仕事に影響するナンバー) #9

#9は繊細で才能豊か、社交的でロマンチスト、芸術家などを表すナンバーです。

絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれ、 画家になる事を迷っていたそうです。

パリで暮らし初めて間もない頃、ルーヴル美術館で見たセザンヌの絵画の鮮烈な色彩に感動しました。

さらにその2年後の夏に、ポール・ローザンベール画廊でピカソの絵画《 水差しと果物鉢》に大きな衝撃を受けたそうで、「帰りのバスの中でも涙が止まらない」くらいの衝撃だったと述べています。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになったそうです。

 この時の感動を「抽象画こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だった のだ」と述べています。

 

ピカソの絵画《 水差しと果物鉢》

 

 

また、職業という観点からは 「僕はパリで人間全体として生きることを学んだ。画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、もっと広く人間、全存在として生きる」という言葉や

「本職って、あえていえば人間かな」と述べています。

 交友範囲も非常に広く芸術家はもとより、思想家、学者、文学者、建築家、政治家、俳優、コメディアンなどジャンルを問わずさまざまな人々と交流し、触発しあったそうです。 

たくさんの人々と触れ合った社交性や、絵画を見て涙が止まらなくなる繊細さや共感力は#9らしいと思いま した。

 

◆ Soul ソウル数 (魂の欲求・1 番大切な価値観・優先したいこと)※気付きにくい #8

#8はパワフルで負けず嫌い、情熱的で行動力と向上心にあふれたナンバーです。 

負けず嫌いの逸話として、慶應義塾幼稚舎で太郎はクラスの人気者となるも成績は 52人中の 52番でした。 

ちなみにひとつ上の 51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「藤山はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったそうです。 

 

また、情熱という観点からは「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。「いずれ」なんて言うヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。と述べています。

絵画以外にも執筆活動や壁画創作、造形作家活動など非常に幅広く多岐にわたる創作活動を行い、死の間際までパワフルで情熱的に創作活動を続けたバイタリティは、魂の欲求に従った結果と思えます。

 

◆ Personality 人格数(ペルソナ) (他者の目に映るその人の表面的人格) #1(19・10)

#1はリーダー気質のしっかり者で、大胆不敵で行動力のあるナンバーです。

#10はカルミックナンバーで前世でやり残したカルマや目的を今生で果たすためのナンバーです。 #19も#10と同じカルミックナンバーで「力」を現し、権力や力の誤用を修正することで本当の意味での自信と威厳を現実社会で確立していくことを学ぶナンバーです。 

幼少期には小学校の先生から権力や力の誤用を学びました。

また、戦後の閉鎖的な日本芸術会を刷新するためにバースの#22のパワーと相まって、より強力で大胆不敵なリーダーシップを取りました。

 

◆ Realization リアライゼーション (人生での可能性や実現性) #4(13)

40歳前後から使用していく項目で、#4は基盤づくりや軌道修正。

#13は創造と破壊を繰り返し、常に学びを喚起させられるナンバーで共にバースにヒットしています。

ちょうど40 歳頃から、前衛芸術を認めない旧態依然とした戦後の日本美術界に#13らしく革命を起こしてい きます。その結果、日本での前衛芸術の#4らしい基盤を作っていきました。

 

◆ Stage ステージ (活躍する舞台) #4

ここもバースにヒットしています。

#4は自分の能力を社会で活かしていくナンバーです。 太郎の芸術的な能力を活かし、さまざまな活動や表現方法をとおして、たくさんの人々に影響を与えていきま した。

 

◆ Challenge チャレンジ (チャレンジする課題) #9

#9は自分の中に核を定め、そこにエネルギーを集中させるナンバーです。 

「人生の目的は悟ることではありません。生きるんです。人間は動物ですから。」や、 「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。

ただ前に向かって身心をぶつけて挑む瞬間、瞬間があるだけ。」 と述べている通り、あくまでも一人の人間として「生きる」ことに専念しました。

 

◆ Month number マンスナンバー (若年期の様相) #2

#2は母親との関係性や受容を表すナンバーです。 

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。世間知らずのお嬢さん育ちで、家事や育児が全く出来ない人物でした。

太郎が 3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子はヒモでタンスにくくりつけることが多かったというエピソードがあります。 

我が子を放って創作に没頭するかの子のひどくやせて青白く、束ねられることもない後ろ髪の姿の印象を、後年「ユーレイかの子」と述懐し「母親としては最低の人だった。」と語っていますが、生涯敬愛し続けました。

父・一平は酒と女にお金をつぎ込んだ放蕩者。

かの子は次第に病んでいき、ある日自殺未遂をしてしまいます。 それをきっかけに一平は心を入れ替え浮気をやめますが、今度はかの子が恋人を作り家族と同居することを認めさせます。

かの子はその後も次々と男性遍歴を重ねていったそうです

 

このような経験から太郎は物心ついた頃には独身主義を誓うようになったと述べています。

また、両親については「私が今考えて父母に感謝することがあるとすれば、父も母も世間一般の親としてはまったく落第だったが、常に対等な友人のように人間同士として扱ってくれたことである。」とも述べています。

複雑な家庭環境で育った太郎ですが、そんな状況も#2らしく受けいれて父母に感謝しています。

 

 

【TYPE II】

◆ Creation クリエーション (想像する力・何かを生み出す力)

#4

#4は基礎をしっかりと形成させ実際の成果を導く力や、着実性やこつこつ時間をかける忍耐力を表すナンバーです。

20 代のほとんどをパリで過ごし、パリで人生観や芸術の方向性を確立させていきました。

 

◆ Growth グロース (魂の成長・何かを成長させる力) #2

#2は真の自立した人間関係の学びや、自らの人生に責任を持つことを表すナンバーです。

複雑な家庭環境で幼少期を過ごした太郎ですが、19 歳で単身パリ生活を始め、様々な人たちに出会い人間関係を学びました。

 

◆ Maturity マチュリティ (完成度・成熟度・集合意識へのシンパス) #3

#3は感情にまつわる集合意識のキャッチや、コミュニケーション能力の発揮を表すナンバーです。 繊細な感受性で世間の感情をキャッチし作品に反映させていきました。

 

◆ Lead リード (リーダーシップ・けん引する力・人をどう導くか) #4

#4は支援という立場からものごとを形成する役割や、ルールを作る、強靭さと忍耐強さで人々をバック アップするナンバーです。 自分の思いを作品に込め、その作品や名言を通して間接的に影響を与えるかたちで支援し作品を見た人々 を導きました。

 

◆ Support サポート (サポートする力、何かを支援する力) #3

#3は表現者、アーティストなどを表すナンバーです。 生涯を通して表現者として作品を作り、その作品を通して気づきなどを促してサポートしました。

 

◆ Make Mood メイクムード (ムードメーカー・雰囲気をつくる力) #2

#2は知性的だが時に排他的を表すナンバーです。 著書や名言で教えを説いたりしながら、自分の邪魔をする者には徹底的に反抗しました。

 

◆ Body ボディ (身体の持つ創造的ヴァイブレーション) #4

#4は医療や鍼灸、リラックスや呼吸法を表すナンバーです。 現在に至るまで、鍼灸でツボに刺激を与えるように、空間デザインや著書など様々な角度から人々に刺激を与え続けています。

 

◆ Emotion エモーション (情緒・感情の現れ・感情の活かし方) #3

#3は繊細な感受性を表すナンバーです。 

繊細な感受性を生かして、様々な芸術作品で表現しました。

 

◆ Intelligence インテリジェンス (知的才能とそれをどう役立てるのか) #2

#2は優秀でロジカルな思考と理解や、聡明さを表すナンバーです。 著書や名言で自分の考えを論理的に説明したり、教えを説いています。

 

 

 

History

□ 1st ステージ 0~32歳

サイクル #2 受容の学び

ピナクル #1 自己主張・現状打破

チャレンジ #6 愛情と思いやり

 

・1911 年(0 歳:#22) 幼少期は東京・青山と祖父母が住む京橋を行き来して過ごしました。

 

・1917 年(6 歳:#19) 権力や力の誤用の修正

6 歳になった岡本は東京・青山の青南小学校に入学しますが、学校に馴染めず 1 学期で退学し、その後も数校の小学校を転々としています。

理由としては「先生のいろいろな卑しい態度が気になりはじめ、我慢できなくなった」と述べており、この時点で早くも権力や力の使い方を学んでいると思われます。

 

・1918 年(7 歳:#20) 直観力・変化を受け入れる 4つ目の学校となる慶應義塾幼稚舎へ入学。両親と離れて寄宿生活を送りました。 直感でこの学校ならと思ったのか、両親と離れて暮らすという変化も受け入れました。

 

・1925 年(14 歳:#18) 創造・負けず嫌い 処女作となる「敗惨の嘆き」を制作。

同級生と発行した同人誌の表紙に使われました。 ボートレースの学校内対抗試合に負けた悔しさを、創造力と負けず嫌いを生かして作品にしました。

 

・1930 年 1 月(18 歳:#22) 新しいステージに向かう・開拓する年 パリに到着。

単身パリ生活が始まりました。 親元を離れてのパリ生活という新しいステージがスタートしました。

 

・1932 年(21 歳:#16) 真理の探究 ピカソの「水差しと果物鉢」に衝撃を受け、抽象芸術の道を志します。 表現方法の模索という芸術的な真理の探究をしている最中に、運命的な芸術作品と出会いました。

 

・1936 年 1 月(24 歳:#19) 権力や力の誤用の修正 思想家ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受け「素手で魂をひっかかれたように感動した」と述べています。 

ジョルジュ・バタイユによるアンチファシズムの演説により、当時強大な力を持っていたヒトラーの力の使い 方の間違いを認識しました。

 

・1938 年(27 歳:#22) 新しいステージに向かう・開拓 パリ大学にてマルセル・モースによる民俗学の講義に夢中になりました。 (マルセル・モース:世界各地の呪術がもつスピリチュアルな力が社会で果たす機能を研究した方) のちに「芸術は呪術である」と述べています。 

マルセル・モースの民俗学を学んだという事は、太郎の中で新しい知識を開拓し、その知識を元に新しいステ ージに向かったことなのだと思います。

 

・1939 年(28 歳:#23) 受容して成長

母・かの子逝去(49 歳・脳溢血) 敬愛していた母の死を経験して受け入れ、さらに成長したことと思います。

 

・1940 年(29 歳:#24) 受容して現実を知る 

第二次世界大戦中の日本への最後の引揚船でパリから帰国しました。 戦時中という状況を受け入れて帰国したが、日本に戻っても戦争中という現実を体験したと思います。

 

・1942 年(31 歳:#17) 開始して視野を拡げる

中国戦線へ出征。戦場では欧州帰りの自由主義者とみなされ、特に規律の厳しい中隊に配属され、連日の厳しい訓練を受けます。 

終戦後、約1年間の捕虜生活を含めた時期を「わが生涯の最悪の暗黒時代」として、多くを語っていません。 戦争という太郎が経験した事の無い状況が開始した年です。

「わが生涯の最悪の暗黒時代」と語るように強制的に抑圧された生活を送りますが、それも視野を拡げるための経験だったと思います。

 

□ 2st ステージ1 33~41歳 

サイクル #8 達成の時 

ピナクル #2 芽吹き 

チャレンジ #5 変化

 

・1947 年(36 歳・#22) 新しいステージに向かう。開拓 新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界 に挑戦状を叩きつけました。 

詫びさびだけが高尚という戦後間もなくの日本美術会を新しいステージに引き上げようと奮戦しました。当時の日本の状況を鑑みると、新たな表現の開拓に対する反発が想像され、厳しい日々を送られたのではないかと 思います。

 

・1948 年(37 歳・#23) 協調・発展 

旧態依然とした芸術界を改革しようと「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を本格的に開始しました。同年秋には 「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足し、生涯のパートナーとなる平野敏子と出会いました。 

また「ニヒリスチックで批判的」な父の岡本一平が 62 歳で逝去しています。 

評論家も巻き込み、芸術家達と協調して革命運動を起こしました。また、新たに造形芸術にも取り組みはじめ、 表現の幅を広げ発展させていきました。

 

・1951 年(40 歳:#26) 感受性・審美眼 

東京国立博物館で縄文土器の四次元的な美を発見し、衝撃を受けました。 

太郎の感受性を生かして複雑怪奇な縄文式模様と宗教的な意味合いを感じ取り、#6らしい審美眼が発揮さ れ、模様の“美”と宗教的な“聖”の調和を四次元的と表現しました。

 

・1952 年(41 歳:#18) 開拓精神・向上心 

壁画第一号になる「太陽の神話」完成。

その後、太郎にとって最初のパブリックアートである「創生」が完成し ました。

太郎の開拓精神と向上心により、今までとは違ったジャンルの作品も作り上げています。

 

□ 2st ステージ2 42~50 歳 

サイクル #8 達成の時 

ピナクル #3 発展 

チャレンジ #1 オリジナル

 

・1954 年(43 歳:#20) 俯瞰 国際アートクラブ日本支部代表に就任。現代芸術研究所の完成と共に現代芸術をリードする役割を担うことに なりました。

現代芸術のリーダーとして、芸術をより俯瞰して見ていくことになります。

 

・1956 年(45 歳・#22) 大きな事を成し遂げられる年 

旧東京都庁舎の「日の壁」「月の壁」を制作し、国際建築絵画大賞に選ばれました。このことがパブリックアー トに関する太郎の評価を決定づけることになりました。 

国際的な賞をもらうという大きな事を成し遂げました。

 

・1959 年(48 歳:#25) 感受性・変化 

初めて沖縄を訪問し「御嶽」に感動し、画風がカリグラフィックで象徴的なものに変化していきます。この年から彫刻も始めました。 

太郎の感受性を生かして木と石以外何もない空間から“聖”を感じ取り、作品に反映させて変化していきました。

 

□ 3st ステージ 51歳

サイクル #3 開花 

ピナクル #5 変化 

チャレンジ #1 リーダー

 

・1967 年(56 歳:#24) 受容・具現化 

大阪万博のプロデューサーに就任。その後「太陽の塔」の原型も完成しました。 万博のプロデューサー要請を受け入れ、自分のアイデアを具現化していきます。

 

・1981 年(70 歳:#11) 自己主張 

「芸術は爆発だ!」が流行語大賞になりました。

 幅広い世代に太郎の自己主張が認知され受け入れられた年になりました。

 

・1996 年 1 月 7 日(84 歳:#7) 世俗からの離脱 

急性心不全にて死去。後日(2 月 26 日)お別れ会が開かれました。 

たくさんの人々に惜しまれつつ旅立たれました。

 

 

まとめ

自分の中では「芸術は爆発だ!」と太陽の塔を作った人というイメージくらいしかない岡本太郎さんでしたが、日本のアーティストの中では尊敬する方が多いという話を聞いており、アーティストを志す自分としては興味があったのでチャートを調べてみました。

すると、自分のチャートにそっくりだったのでさらに興味がわき、卒業レポートの課題にしようと思いました。

リーディングをして、まず気になったのは自分とは違う方向に判断するところです。

自分なら無難に終わらせられる方を選択するところを、岡本太郎さんはわざわざ苦労の多い困難な方を選ぶと言います。言い換えれば、自分は#4の判断を下すところを岡本太郎さんは#13または#22の判断を下しているという事だと思います。

また、非合理的な苦労の多い方を選ぶ理由として挙げられるのが、歓喜を得たいからだと思い ます。歓喜を得るためには対決や緊張感という苦労が必要とも語っております。

アーティストという面から気になったのは、写実的な上手さや綺麗さは絵描き職人がすることだということを語っており、そういう部分を求めていた自分に気づかされました。

確かに岡本太郎さんの作品は写実的な部分はほとんどありませんが、心に引っかかるものや訴えかけるものがあると思います。

時代の波に翻弄されながらも既存概念にとらわれる事なく、人間としての自由や権利を阻害する者や、権威を振りかざす者には徹底的に反抗し、芸術家はもとより一人の人間として常に全力で魂を焦がした方だと思いました。

また、これから自分が一人の人間として生きていくうえで、重要な本質や方向性を教えていただいたと思いますのでこれからじっくりと今後の生き方を模索したいと思います。

 

 

first-year student by Naoya・K

Zero Point Academy 

 

2019/10/20