どうも。
営業終わってから美容院で髪の毛染めて来ました。
案の定がっつり寝ましたが。
自我について。
自分を捨てることと
自分が無いということは
現象的には似ていても、そのプロセスは全く違うとぼくは思う。
自分を捨てる、つまり、自己という存在から欲望をそぎ落としていく作業とは
強い自我を持った人間にしか出来ない。
矛盾しているようだけど、そうだと思う。
なぜなら人間は言葉で抽象概念を把握している。
この世界の限界は言葉の限界であり
知識の限界なのだとも言える。
自分を捨てるという限りなく抽象的な世界に入っていくためには
世界を知る、というとてつもない言葉のプロセスを経ていかなくてはならない。
自我を持たないと人は世界と立ち向かえない。
世界はとても抽象的で複雑。
言葉によって世界を創造しながら生きているのが人間で
言葉によって体験を獲得し
自分という個体に閉じようとする意識を肉体から解放していく。
よく頭でっかちになると言って
言葉や知識は意識を解放する妨げになると言う人がいるけれども
ぼくは違うと思う。
もし、言葉というものがなかったら
人間は目に見えている以外のどんな概念も思考することが不可能になる。
言葉がなければ抽象的な世界について思考することは出来ず、
目に見えるだけの現実を生きることになる。
あの世、という言葉なしに、どうやってあの世について考えることが出来るだろうか。
ある意味で知識がどんどん言葉化されて成熟してきた21世紀は、新しい精神性の世紀でもあるように思う。
知識は精神の妨げにはならない。
翼だと思う。
精神の妨げになるのは、恨みや妬みといったマイナスの感情の方だと思う。
高貴な精神は言葉と知恵によって羽ばたいていく。
そして言葉を超えるのかも知れない。
その先のことは、ぼくのような凡人には全く分からない。
自分自身がこの鬱陶しい、自我から解放されるにはどうしたらいいのか。
そんなことが出来るのか。
世界の仕組み、生まれて来た意味、死の意味とは何か。
ぼくらは瞬間の連続を生きている。
今という瞬間から次の瞬間の間には何があるのか。
今の先にはいつも未来があるのに、瞬間は連続しているので常に感じるのは現在。
でも、ぼくらは瞬間しか生きられないにもかかわらず、未来があることを知っている。
予感として。
そして、その予感に導かれて瞬間を移動し続けている。
連続した未来へと。
もうこれは本当にぼくの永遠のテーマ。
でももし、自分の中に閉じこもり、自分が決めた予定調和の世界の中にしか生きなければ、この未来への予感は失われてしまう。
自分たちが決定した未来に向かって生きる人たちは、もう予感がない。
時間も止まり成長もない。
世界は自分のなかに完全に閉じてしまう。
しかし、瞬間の連続性が描く放物線の先には
いつも予感としての未来がある。
何故ぼくはちゃんと次の瞬間に向かって連綿と時を移動していけるんだろう。
疑いもせず未来に向かって。
発狂もせずにこの瞬間が継続することを確信して。
開かれた世界の中で時間と空間を統合しながら生きていくこと、それを人間はいとも簡単にやっているけど
これって奇跡みたいに凄い事だと思う。
自分は瞬間の継続の中に存在し続ける、
と、ぼくは根拠なく確信してる。
感謝