自分の洞察
 「自分で自分を疑っている」んだ、と気づいた。だから、知らない事や、まだやった事のないもの、そういうものが怖いし、「知っていたい」と思うし手放せないんだと感じた。今までの、「失敗(と自分が感じている)」出来事、それが自分を疑う原因になっている。「もうあんな思いはしたくない」「恥をかきたくない」「上手くやりたい」・・そういう思いが、自分を疑う気持ちになってすごく用心深くなっている。
 それは、「人からどう見られるか・思われるか・言われるか」が、すごく気になっているからだと感じる。相手の感じる事まで、自分の言動によってコントロールしようとしている。それは、自分が傷つかないためだ。
 自分で体験する前に人からどう評価されるかを気にするから、完璧にしてからでないと動けないし、そこに最初にあった喜びが小さくなっていく。証拠が出来たら、「自分を信じよう」とどこかで思っている。
 でも、飛び込むから信じられるし、相手の事をコントロールなんて出来ないのだから、自分のやりたい事だけに集中していこう、人がどう評価しようと、自分だけは自分の感じる事を大切にしていこうと決めた。
 

 

 
最近の自分の変化について気づいた事は何か
 人に依存していた自分に気が付いた。すごく、受身だった。「自分はまだこれ位だから」「あの人に比べたら、まだまだだから」。だから、どこかで「助けてもらおう」「いざとなったら、頼れる」と考えていた事に気が付いた。
 そうしている内は、自分の本当の輝きや良さを活かしてあげられないと気が付いた。自分の良さを表現する、思う存分輝かせてあげる、それが私のやる事だと気が付いた。
 誰かに評価される為や、愛される為や、傍にいてもらう為じゃなくて、与えられた自分を体験する、それを真剣にやる事だと気が付いた。

自分の洞察
 「自分で自分を疑っている」んだ、と気づいた。だから、知らない事や、まだやった事のないもの、そういうものが怖いし、「知っていたい」と思うし手放せないんだと感じた。今までの、「失敗(と自分が感じている)」出来事、それが自分を疑う原因になっている。「もうあんな思いはしたくない」「恥をかきたくない」「上手くやりたい」・・そういう思いが、自分を疑う気持ちになってすごく用心深くなっている。
 それは、「人からどう見られるか・思われるか・言われるか」が、すごく気になっているからだと感じる。相手の感じる事まで、自分の言動によってコントロールしようとしている。それは、自分が傷つかないためだ。
 自分で体験する前に人からどう評価されるかを気にするから、完璧にしてからでないと動けないし、そこに最初にあった喜びが小さくなっていく。証拠が出来たら、「自分を信じよう」とどこかで思っている。
 でも、飛び込むから信じられるし、相手の事をコントロールなんて出来ないのだから、自分のやりたい事だけに集中していこう、人がどう評価しようと、自分だけは自分の感じる事を大切にしていこうと決めた。
 

 

 
最近の自分の変化について気づいた事は何か
 人に依存していた自分に気が付いた。すごく、受身だった。「自分はまだこれ位だから」「あの人に比べたら、まだまだだから」。だから、どこかで「助けてもらおう」「いざとなったら、頼れる」と考えていた事に気が付いた。
 そうしている内は、自分の本当の輝きや良さを活かしてあげられないと気が付いた。自分の良さを表現する、思う存分輝かせてあげる、それが私のやる事だと気が付いた。
 誰かに評価される為や、愛される為や、傍にいてもらう為じゃなくて、与えられた自分を体験する、それを真剣にやる事だと気が付いた。

自分の洞察

 ミユキ先生にも言って頂きましたが、「手放す」「委ねる」という事が苦手だ。「自分で知っていたい」という気持ちも強いし、自分の価値観や考え、感じている事に対するこだわりも強い。「認めて欲しい」という気持ちも強い。それは全部、今まで私が生きる上で必要だったもので、私を守ってくれてきたものだった。今までは、「コントロールする」事で自分の要求を満たそうとしたり、幸せになろうとしてきた。そうやって「頑張る」事で、色んな事を乗り越えたり身につけたりしてきたけど、その「コントロールを手放す」ところにコミットする時期なんだ、と感じる。  

最近の自分の変化について気づいた事は何か

 「自分以外の誰かを受け入れる」という事を自分に許した瞬間、それまで滞っていた出来事が、スッと流れ出した。「受け入れたい」「思い切り愛したい」というのが私の本当の要求だったのに、今まで許せていなかったんだと気づいた。  同時に、それまでは相手と自分を切り離していた事に気がついた。物理的には一緒にいても、相手と、相手と一緒にいる自分を、本当に引き受けていたのではなかった。その感覚を思う存分感じて良いのに、感じる事を制限していた。  「一緒にいる」だけじゃなく、「一緒に生きている」と感じるようになった。ささやかな出来事が、キラキラして見えるようになった。

最近の自分の変化について気づいた事は何か
 「自分の価値」と、「自分がやっている事」を切り離して感じられるようになった。「自分の価値」は、命や生きている事そのもの。
 今まで、それがピッタリくっついていた。「自分がやっている事」が素晴らしければ、「私は素晴らしい」。失敗(と自分が思っている)したり、成果が出なかったり、評価されなければ、「私はダメな人間」「私は価値がない」と感じていて、必死だった。
 最近、その感覚が変わってきた。何か失敗をしたり、人を傷つけてしまったり、人から冷たい(と私が感じる)反応があったり、粗雑に(これも私がそう感じる)されてしまったなあ、と感じても、以前のように自分を責めたり、罪悪感に苛まれたり、その人を異常に怖がったり、その気分をずっと引きずったりしなくなった。
 やってしまった事は、「まずかったな」とか「自分のこういう所は、もっと良くしたい」と思うが、それが「自分の価値」の上に乗っかった、「出来事」なんだと感じるようになった。
 ある日突然、そういう自分に気づいた時、「あれっ、自分を責めなくていいのかな?!」と感じる自分がいた。「自分を責めない自分」に気づいた時、何だかソワソワした。けれど、一向に責めたりする気分になれなかった。私の価値や素晴らしさに対する、信頼感があった。だから、「ああ、これでイイんだな」と感じた。それが、しっくり来ていたし、もう責める事が出来なかった。
 その事に気づいた時、「自分を責めないと、○○さんに申し訳ない(自分で自分に言い訳する)」とか「何かやらかしてしまったり、相手からこういう反応があったら、自分を責める」という気持ちや行為が、「出来事」に自動的にセットになっていたんだ、と気づいた。   
 今までそれが当たり前だったので、責めない自分に違和感があるんだな~と感じた。「自分の価値」、これは誰にも、そして自分自身にも絶対傷つける事は出来ないんだ、と感じた。





フィーリングリベレーション
(何を思い出し何を叫んだか)
天井が見える。天井からつり下げられているおもちゃが見える。隣の部屋でわいわいにぎわっている声がする。部屋の匂い。太陽の柔らかい光を感じる。部屋はし閉め切っている。冬の部屋を感じる。こたつとか、毛布とかそういうイメージが湧いてくるからおそらく冬だと思う。カーペットの柔らかさ。父と母、姉か……….。とても楽しそうだ。私はそれが許せなかった。私をのけ者にして楽しんでいると感じた。『僕を一人にするな』と言葉が出た。寂しさを感じていたようだった。その感情を認識した。そしてその後に怒りがやってきた。両親たちを許せなかった。暴れた。隣の部屋に聞こえるように大声で泣き、そして身体をゆすった。自分に気づけといいたかった。怒り。自分の感情に気づくことが出来た。

(自分の洞察)
 怒りの感情を吐き出すことが出来た。今私が最も欲しいのは、エネルギーだ。エネルギーをロスすることはしたくないし、抑圧があればそれを解放することによって自分を取り戻したいと思っている。そういう意味で、今回の怒りを感じられたことは自分にとって喜びであり、充実感を得ることが出来た。最近、自分自身に集中することが出来るようになってきている。不安やイライラ、頭が忙しくなることも多々あるが、自分自身のために時間を使ってあげたいという思いが強くなった。演技に対する関心が高まった。

 東京クラスレポートより


  クラスでも言われたことだけれど、最近自分の顔を見ると、どこかデトックスしたような爽快感を感じる。と、同様に、今までは恥ずかしがったり、大人しくしいたことの壁が、良い意味で崩れてきたように思う。


  男の人の前ではある意味“カマトト”のようにふるまうことで、自分の素顔を見せないようにしてきた。でも今は、若い男性達の前で、自分の羞恥心の範疇を超えた行動をしている。でも、そこにはいやらしさや、じめじめっとしたものはなく、人間としてあるがままの自分を出せているような、男女とかそういう範疇を超えた対等感というか、人間って美しいよねって思えるというか、そんな風に、男女関係なく振るまえるようになった自分が、ちょっぴり好きだ。そして、そういう自分は依然より屈託なく笑えるようになってきていると思う。そしてその潔さを持った上で、女性は女性らしく、男性は男性らしく魅力的になるのだろうと思う。私は女であることをもっと楽しみたい。

フィーリングリベレーション

自分に対する洞察 

僕は家族の中で、自分らしさを感じられなかった。自分らしくいられることがなかった。父と母に見せていた自分は、常に父と母を意識して演じていた自分だ。二人の気分を害さないように、父と母にいい顔をした。優等生を演じた。いい子を演じた。
子供の自分にとって、世界で一番大事なものは父と母だった。親は本当に大きな存在で、愛して止まない存在だった。子供の僕は愛する親のために、親を中心にして生きていた。それはとても自然なことだし、子供の自分にとっては当然のことだった。 でも親を中心にしたせいで、僕は置き去りにされた。自分が本当に思っていることや、感じていること、考えていること、それらが表現される機会はことごとく奪われた。気楽に自分の感じていること、考えていることが外に流れないようになった。
すべて父と母のためだった。子供の僕は父と母を愛しているからそうしたのだ。子供の親に対する愛情はとても深く大きい。セッションで、その愛情をあるがままに感じると、自分が取り戻されていくようだった。


最近の自分の変化

自分の芯、核、要求を常に意識するようにしている。自分はなぜ俳優なのか?何をやりたいのか?まさに役を演じるように、自分の胸に問いかける。要求を感じられればすべてがその方向に動き出す。大切なのは自分という主役を力強く演じきることだと感じる。周りを中心にせずに、自分自身を人生の中心に置く。僕にとってそれはずっと難しいことだったが、ゼンスタでの長年の訓練のおかげで、本当の自分らしさ、自分の中心を取り戻すことができた。ますますその中心を強め、要求を高めていきたい。自分が何をいかにするかは、任せて見ていようと思う。今もこれからもとても楽しみだ。
フィーリングリベレーション レポート

父への想いを思い出した。非常に父が好きだった。愛していた。その感情を思い出した。しかし、それは抑えられていた。「男同士だから好きだというのが気持ち悪い」そういうフィーリングが湧いてきた。おそらく父にそのようなニュアンスのことを言われたことがあるのかも知れない。父にもっと甘えたかった、愛されたかった。しかし、それを押さえつけるものがあった。父への本当の要求を感じることが出来た。愛し愛されたいという要求。
 最近はまっすぐ突き進むことの大切さを実感している。私は対等に付き合うということを苦手にしていることに気づいた。初対面の人に会うときなど、私は遠慮したり、相手より自分を低くみることで相手との距離を測ってきた。しかし、これは自分の癖だということが分かった。今は対等という気持ちを意識している。そうすることで今まで気づけなかった相手の情報が沢山得られるようになった。対等であること。これは青春の三段跳びのエクササイズが教えてくれたことだ。このエクササイズにとても感謝している。

フィーリング・リベレーション


自分の洞察
自分がありのまま表現すると相手を困惑させたり引かれたりするのではないかという無意識の警戒心が表現することにブレーキをかけていたことが分かった。表現を止めると感情もとまる。流れていかないのだ。いつもあと出しだった。相手が心を開いてくれたことを用心深く、臆病に観察してその結果初めてその相手に自分を表現してきた。自分から先に表現できる人のことを特別な人で、羨ましいと思っている。
 最近の変化は、自分から表現したいと強く感じる。そしてそれを実行している。以前はセッションの最後の交流の時、相手が表現してくれて初めて自分も感じたことを表に出していた。相手が自分ほど心を許してくれていなかったらどうしようと言う心配が常にあったのだ。
 だが、もう関係ない。自分から愛を表現する。自分から心を開くと相手も心を開いてくれると実感した。表現すると更に感じどんどん感じたことが循環していくのが分かる循環。これは他の人にとっては当然のことなのかも知れないが、自分にとっては何故か出来ないことだった。僕はずっとこうしたかった。自分から愛を表現したかった。それも、何か新しく取り入れた後からプラスした特別なことではないと感じる。これが本来の自分の姿なのだ。僕は本来の正常な状態に戻りつつあるのだと感じる。
 いつも自分ひとりで苦しんでいる気がしてたが、先生とみんながいたから感じたことを表現する本当の喜びを実感できました。ありがとうございます。

今回は、大雪のため東京クラスが休講となりました。

レポートも一時、お休みとさせていただきます。