エゴにとって「我の所有」というものはエゴ自身そのものだ。
それは関係性だ。関係性は主体と対象の見せかけ上の繋がりだ。それは見せかけ上のものに過ぎず、実際には全く存在していない。
誰もがそれを本当は知っている。その気づきを欲望は恐れる。架空の自己イメージはその気づきの中では維持できないからだ。
人は自分に執着する。執着するから恐れる。恐れるからこそ自分の存在を確認する。そこに繋がりがあることを確認すると安心する。
その関係性にエゴは自分の立脚地を見出だし、そこに自分の存在を確認する。
そうでなければエゴは存在できない。エゴは存在を有していないからだ。そこに根本的な不安がある。
根底に不安があるからこそ、関係性の繋がりに安心する。
しかしそれは現実には存在しないものだ。
何も恐れる必要はない。それが非存在と理解された後も自己が消え去ることなどない。
映画の映像が単なる虚像であると知ったところでそのフィルムが回る限り、映像が消え去ることはない。
映像はいずれ必ず消え去る。しかしスクリーンは消えない。
人は必ず死ぬ。自己を誤解している人は自分が消え去ることをあらゆる次元から恐れる。
死を待たずしても私達は精神的な次元で様々な死を体験する。
エゴの所有する何かが失われた時、それは死だ。エゴは自分が同一化していた対象を失うと、自分の一部が死んで欠損してしまったと感じ、苦しむ。
しかし自己の存在そのものが、そのように増えたり減ったりすることが現実的にありえるだろうか?
いや、ない。
その自己を否認することがエゴの生命線となっている。
エゴは自分で自分の存在を否認しておきながら、その苦しみを拒み、その恐れを原動力に自分の存在を維持しようとする。
私達の個我性は対象との関係性にのみ依って浮き彫りになる。エゴはそれ自身、自ずと存在することはできない。
エゴにとって第一の関係性とは自分の心身だ。その心身を中心にエゴは自らの想像によって世界を造り出す。
そこには関係性という繋がりが必ずある。関係性自体がエゴそのものだ。
エゴは欲望そのものでもある。エゴは自分が欲する自己イメージを対象との結合によって実現する。
ある結合は望ましく、好ましい。また別のある結合は望ましくなく、好ましくない。
これらの反応は自己イメージという架空の存在から生み出される。
欲望が思い通りに実現された状況において、エゴは自惚れに高ぶり、幸福だ。逆の場合、エゴは自己卑下に沈み、不幸だ。
その全てが関係性によって紡ぎ出される。関係性は常に心の中にある想い、観念に過ぎない。それは現実の宇宙には全く関係ない。
それは実在ではない。存在しない。単に私達が生活を円滑に営むための便宜上の観念に過ぎない。
それは精神的な道具であり、自己はその主だ。しかしエゴはその奴隷なのだ。
だからこそエゴは常に関係性に隷属させられている。そこに束縛があり、エゴはその限定に苦しみを感じている。
誰もが知っているからだ。「本来の自分は無限の存在であり、自由である」と。それ故、その真実の自己に反するものに対してエゴは拒絶を感じる。
しかしその存在は自己であって、エゴのものではない。エゴは「我こそは存在する個人である」と自惚れているが、それは事実に反する。
エゴはこの誤解から「我は素晴らしい存在だ。そうあるべきだ。そうでなくてはならない」と思いなす。
この想いが欲望となり、エゴは勝手に理想の自分像を想像する。その想像を実現するには対象が不可欠であるから、エゴは対象に執着する。
それが得られればエゴは自分に満足し、得られなければ自分に苦しむ。欲望を元に自分を裁いているだけのことだ。
事実は、個人は初めから個人を超えた自己である。それ故、その自己が個人という束縛を受けたことはなく、その束縛からの解放もない。
自己は本性上、対象を有していない。自己は自ら自ずと存在し、それ自身を目的としてある。得た、失った、全てはただ個人の誤解に過ぎない。
獲得と損失は関係性における話でしかない。
人は自分の限定に苦しんでいる。個人にはアートマンの影像が宿っている。個人はそれを無意識のまま気づいている。しかし無意識であるから誤解される。
エゴは自身の真我を個我と混同し、「自分は偉大な存在だ」と思い込む。どんなに表面上謙虚に振る舞おうともその傲りは隠せない。
この傲りがあればこそ人は幸福になれる。その傲りが挫折すれば個人は苦しむ。どちらも傲りから生まれる情動であり、どちらも自己を抑圧する。それ故、本当の幸福は実現されない。
どんなに幸福を手に入れてもそれは永続してくれない。エゴはそこに不満を見て、その獲得という名の限定を拡大しようとする。
しかしラマナ・マハルシが語った通り、限定故に不幸であるならば限定が拡大するにつれ不幸も拡大するのである。
人は獲得を増やせばそれで自分の存在が大きくなってゆくと思っている。それ故、自分を富める者と思いなす者はエゴの気が大きい。
その気の大きさが自信や幸福や余裕などと世俗では言われているが、それは単なる自惚れ、傲りに過ぎない。
それは自他に内在する自己を抑圧し、苦しみを生み出す。押された波はいずれ引いて戻る。そのようにしてエゴはいずれ、幸福に等しい不幸を必ず味わうことになる。
エゴが所有する我が幸福というものは実際には自己に対する限定が拡大しているだけであり、根源的な苦しみもまた拡大しているのだ。
人は所有に依って幸福になるわけではない。所有という幻覚の正体を見抜き、自己が無所有にあることを自認することに依って幸福を理解するのだ。
無所有とは何もうわべの持ち物をただ棄てるということではない。何かを所有したり所有しなかったりするその「我」を棄てることが無所有だ。
エゴが短絡的に何かを棄てただけならば今度はエゴは無所有という概念を大事に所有することになるだろう。
無所有、無一物とは本来そういう短絡的な話ではない。
勿論、表面上の様々な物を棄てることが全く無意味なわけではない。そうでなければ脱俗した聖者はわざわざ脱俗しなかっただろう。
表面上の次元において不要な対象を持たないことはそれはそれで精神を軽くする。
断捨離というものが一部の人々の間で流行ったりしているが、それは実際に心理的な効果がある。
しかしより重要なのは何かを持ったり棄てたり、獲得したり損失したりすると推測されているそのエゴ意識を棄てることだ。
それを棄て去るならば、全ての所有と無所有は一太刀で断たれるだろう。
そうなれば物が溢れてようが、溢れてなかろうが関係なくなる。雑念があろうがなかろうが、関係なくなる。他者がいようがいまいが関係なくなる。
自己は自ずとそれ自身存在し、自由だ。
ただ心身は常にそれ自身の限定を自ら負うことになる。それ故、心身の次元においては当然、解脱者でさえ好ましい状態と好ましくない状態はある。
無欲を体現し、可能な限り対象との結合を差し控えればそれだけ心身をできる限り平穏に好ましい状態に留めておける。
それ故、仏陀などは脱俗を奨励していた。ラマナなどは徹底的に関係性から身を退けていた。
しかしそれは"無理に"そうしなければならないわけではないのである。
内的に自己の無所有性を理解するならば本質は変わらない。クリシュナやジャナカなどは在俗であった。彼らは王族であった。表面上、様々な富を有していたことだろう。
しかし彼らは何も所有しなかった。あるいは全宇宙の全てを所有していたのだ。どちらでも同じだ。
自分は持っていない、と想う者だけが持っていない対象を欲する。自己に満ち足りた者は何一つ持っていないにも関わらず全てを有してもいる。
というのも自己から離れて存在するものは何も存在しないからだ。
私達は関係性というものを理解しなければならない。私達の唯一の繋がりはただ自己のみだ。
それを宇宙、神、仏性、空性、虚空などと呼んでもいい。そこでは何一つ除外されない。
関係性というものは必ず主体と対象の分断を暗示している。その分断なくしては個我は自分の個人存在に実在性を付託できない。つまり関係性が一体感をもたらすことはない。
分離、分断、境界という前提なくしてはそれは維持できないからだ。
関係性は私達を孤独にするものだ。関係性は私達を苦しみに誘うものだ。関係性は私達に差別をもたらすものだ。
全てはただ存在する。それが現実だ。何も交わりはしないし、分離したりもしない。現れもしないし、消え去りもしない。得られはしないし、失われもしない。
関係性とは単なる観念だ。それに現実性を与えるのは当人の想像だ。
エゴは自分を立派にしたい。その欲望が望みの対象を求める。関係性はそのようにして欲望によって現され維持される。
その関係性によってエゴは高揚したり落胆したりする。「ある対象との関係性が失われた」という観念もまた関係性の内であり、エゴの所有なのだ。
関係性がある、関係性がなくなった…どちらにも関係性という主語があり、そこには関係性があることを意味している。
全てはエゴ自身の所有する自分自身の意味と価値に過ぎない。エゴは自己の本性である空性を勝手に虚無や無意味や無価値に解釈して恐れる。
しかし自己からは逃げられない。色は空と不可分である。それ故、どんなに意味や価値を蓄えようともそれら自体もまた空性が不可避だ。
そこにエゴは虚しさを感じ、消沈し、恐れ、自分の意味や価値を更に追求してゆく。
無意味というものには意味がないという立派な意味があり、無価値というものにも価値がないという立派な価値付けがある。
それ故、エゴは自分を無意味・無価値であると想う場合、苦しむ。本当にそれが無であれば無であるが故に苦しみもないはずだ。しかしエゴは確かに苦しむ。
そこにはエゴの所有する意味と価値が依然としてあるからだ。虚無感にもまた虚しいという立派な感情がある。エゴは虚無感という感情を所有している。そこには苦しみがある。それはエゴの所有だ。
こういった全ての話がただエゴの自惚れにある。我は何かを得たり失ったりすることができる、と思い上がった結果だ。
実際にはエゴにそんな上等な能力はない。エゴはただ自分の欲望に翻弄されるだけだ。
人がこの所有という概念をきちんと調べるならば、その関係性は現実のものではないと判明する。
それらはただあるだけだ。エゴが想う関係性とやらは全て単なる後付け設定だ。
私達が見るべき関係性はただ一つ。存在だ。バクティ(信)の観点からならば、私達は皆、神・仏の元で一つだ。
それが二元性の正しい見方だ。その不変かつ普遍の関係性を理解する時、初めて私達は本当の意味で幸福な関係性を表現できるようになる。
それは人間が欲望に依って築く関係性ではない。それは愛によって自然とある関係性だ。
それ以外の関係性は皆全て、恐れに過ぎない。その恐れはいずれ現実となるだろう。諸行は無常だからだ。
その時、人は苦しむ。我は失った、と嘆く。その苦しみは代償なのだ。
私達は物を購入する時、代金を支払う。自分で支払っておいて、後になり「財布のお金が減ってる!」と嘆く者はいない。
欲望もまたそのように見るならば人はきちんと代償の支払いに納得・受容できる。
自分のキャパシティに応じた代償ならばさほど苦にもならないだろう。欲望はそのように楽しむべきだ。
しかし多くの場合、私達はカード破産のような心理的破滅(苦しみ)を自ら描き出してしまう。問題はただバランスだけだ。欲望の奴隷であるエゴにそれは見えない。
それは欲望の主である自己だけが見透せるのだ。