心 7 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

私達の心意識には様々な次元が内在している。通常の意識における表層でさえも心は様々な姿を見せる。


嬉しい時と悲しい時、それらにおける心の状態は全く違うと言えよう。しかしその対極とも言える双方においてさえ「私」はどちらにもある。だからこそ「私は嬉しい、私は悲しい」と人は感じ、表明する。


この「私」は個我である。あらゆる全てはこの個我・私に対して現れる。


この「私」というものは嬉しい時にも悲しい時にも、平常意識の時も変性意識の時にもある。この私・個我は心に宿ったアートマンの影像であるとシャンカラは言う。


それ故、その個我はアートマンを心身と混同する。アートマンの性質を自分のものであると見なす。その混同が「自分には存在と認識があり、自分は独立して存在する」という誤解を生む。事実は、個我に実在と言える存在はなく、それ自体の認識もなく、独立もしていない。


個人=心身は変化し続けるから不変の存在性、確かな存在=実在性を有していない。また個人=心身は常に認識の対象であるからそれ自体は認識の能力を有していない。また個人=心身は必然的に他との縁に依ってのみ存在し、それ自身存在することができず独立性を有していない。


しかし個人は通常その事実に気づいていない。存在と非存在の混同、この誤解自体そのものが個我である。


個我としての「私」は心における第一の想念であり、第一の印象だ。その「自分」という感覚は個人存在における最小限の基礎事実となっている。如何なる現れも必ずその「私」に対して現れるからだ。


如何なる状態においても必ずそこには「私・個我」がある。


平常意識、変性意識、霊性意識それらの意識状態はそれぞれ全く次元が異なる。にもかかわらずそこには一貫して「私・個我」がある。


しかしその個我が原因身(熟眠や気絶など)の状態にある時には個我は自身を自覚しない。それ故、原因身は無知に完全没入した状態として定義されている。この状態は無意識として個我に分類されている。


しかし当の個我は目覚めと共にその全くの無自覚状態から再び現れてくるのである。多くの人は死んだら無になりそれで全ておしまいと考えるが、その無意識(無知、無明)を元にして個我は生まれてくる。それ故、死においても同じなのである。その個我という幻覚は当人が望もうと望むまいとカルマに強制されて再び現れる。


原因身においては如何なる探求も瞑想も信仰も不可能な状態にある。神(あるいは仏であれなんであれ)を信仰する者でもひとたび意識を失えば神のことなど忘れてしまう。つまりその神は個我の消失と共に消え失せる。それ故、その神は観念にすぎず非実在である。


それを聖像と言うことはできても実在とは言えない。個人が意識を失うと消え去るから。


夢見においては探求、瞑想、信仰が可能であるが求道心が強くなければ夢見の中でそれらは再現されない。恐らく過半数以上の求道者は夢見の中では真理や信仰を忘れて夢の人生に同一化しきっていることだろう。


夢の記憶を分析すると自分の信仰や理解がどれくらい自分に根付いてきているかを知ることもできるのだ。ヴェーダの学派では、夢は目覚めにおける印象が再構築されたものであると言われる。


当人の中で瞑想、念仏やマントラの復唱、信仰という印象(善のカルマ)がある程度固まりだすと夢の中でもそれらのサーダナ(修行)が再現されるようになる。


アートマンの知識が定まりだすと夢の中で苦しみを受けても反射的にそれを識別知で無効化するようになる。それらは個人の成長、進歩として肯定的に受け取れるものだ。夢見においてさえそのようにあれるならば目覚めにおいては尚更である。


そして個人は目覚めの状態こそが実在であると定義しているので、基本的に目覚めの状態において精進に携わらなければならない。


目覚めの状態では意識の自覚が粗雑であるが故に夢見よりかはその形態がハッキリしている。それ故、真理や信仰を意識することが夢見の状態より何倍も容易である。この利点は最大限に活用すべきである。


もしあなたが常に「私は在る」という存在感覚への自己留意を意識するならば、目覚めにおいてそれは容易に維持される。あるいは信仰対象を観じることやマントラ・念仏などを復唱し続けることなど。今、それは意識でき、意識し続ける限りそれは意識され続ける。


一方、夢見では私達はそれほど意識的になれない。それ故、解脱は目覚めの状態において意識的に実現されなければならない、と語られる。勿論、この描写は方便にすぎないが個我にとって目覚めの状態は基本とされる状態なので私達は今、きちんと意識的に生きる必要があるのだ。


その意識が微細な領域にまで深まってゆけばそれは原因身(無知、無明)の領域に到達し、意識の光がその闇を一掃して智の光がそれ自身輝きだすだろう。


トゥリーヤの状態はその光が顕になった状態なのだ。そしてその光自体は常にある。今、ここにある。あの時はあったが今はない、というものではない。だからこそ聖者達は「至福や神秘体験に固執してはならない」と説く。


それらに固執してしまうと「真実はまだない。今はない」ということになってしまう。すると個我は仏陀やシャンカラが戒めた「時を要するもの」を追求してしまう。


時間が想定され、その直線上のある点に解脱や浄土が現れるだろうという想像(欲)が実際に当人の心に現される。しかし現れの全ては無常である。自我に想定可能な対象は条件の縁が整い次第、何であれいずれ輪廻の内に現れるだろう。そしていずれ必ず消え去るだろう。


それはスピリチュアルとは関係ない何か自我の個人的な希求にすぎない。その個人こそが克服すべき第一の対象なのであるが。その止滅されるべき当の個人が、自分の存続を前提としなければ実現できないものを実現したところでニルヴァーナは顕にはならないだろう。


仏陀はニルヴァーナの実現さえ縁に依る(=自我の自力で意図的に達成できるものではない)と説いている。それ故、私達の努力(この努力とは仏陀が奨励した精進であり、我力による望みの希求ではない)は縁の流れにおいてのみ有効となる。


この縁の流れを幸福(エゴ意識の克服)へ向けてゆくことだけが唯一、個人に実行可能な精進である。個人は実行しなければならないことは自分が実行しなければならない。正確には自分を通して現されなければならない。


個人の努力は全て自力だから解脱に繋がらない、という解釈は単なる無知である。明け渡し、絶対他力とはそのような短絡的なものではない。信心決定も座禅も、個人がしなければならないことはしなければならない。


マントラや真言や念仏の復唱、信心決定、ヨーガ、座禅、瞑想、祈り、探求、識別…これらは皆同じ目的にある。そして皆、同じ結果になる。やっていることは同じだからである。


「いや、違う。南無阿弥陀以外に救いの道はない」と言うのならその差別意識こそが信心決定を妨害し続けるだろう。


太古の昔から虚偽の信徒は皆、「ただこの教えのみが救いをもたらす」と宣ってきた。短絡的な次元でしか聖典の言葉を読み込めないが故に。事実はただ真理だけが真理を顕にすることができる。


それ故、真理に則した教えは皆、これ(真理)だけが救いの道であると説くのだ。ヴェーダ聖典でさえそう説いている。それは教義に由縁しているのではなく真理そのものに由縁している。


これを曲解するならば当然、宗教・宗派同士で優劣を宣い合う愚行ともなろう。それに固執するのは誰か?神・真理ではなくエゴなのだ。


全ての宗教は言葉は違えどエゴからの出離を奨励し、その具体的な精進を教える。エゴから出離する精進に励むならば真理の優劣はなくなる。その段階になって初めて全ての真っ当な宗教は同じ一つの真理に基づいていることが理解されよう。


水を「みず」と呼ぼうが「うぉーたー」と呼ぼうが水には何の関係もないであろう。


「水だけが渇きを癒せる!」、「いや、ウォーターだけが渇きを癒せる!」…そのようなバカ気た想い(自分が信じるものの特別性=エゴの特別性)に固執する心の中に癒し(神・阿弥陀・クリシュナ=救い)などはない。


何を信仰し、何を実行するかは問題ではない。それが真理に則したものなら皆、同じである。当人が最も自然に順応できるものが適当である。


ギーターに記された通りサットヴァ(純粋性)の信心がある人はあらゆる神々、あらゆる教えから多角的に一つの真理を素直に学んでゆくことができる。


これが一番進歩が早い。偏見なく全ての教えからそのエッセンスを読み取り、あらゆる方向から助力を得られるからだ。


私は自分の中核にアドヴァイタ・ヴェーダーンタがあるのは間違いないが、それ以外の教えも敬愛し、このブログでも引用している。私がもし「アドヴァイタ・ヴェーダーンタのみが真理に通じる唯一の道だ」と宣うならば読み手の選択の機会を奪うことになるだろう。


それは望ましいことではない。「自分の仲間を増やしたいから他宗の劣る面を強調して読み手の選択の機会を奪う」…それは我欲による自力根性というものだ。その観点からは非二元を観じることはできない。


そしてひとたび基本が理解されたなら全ての真っ当な宗教は皆、同じ真理に基づいていることが理解される。真理への敬いが芽生えれば全ての真っ当な宗教を等しく敬愛できるだろう。


何を行じようと修しようと要点は「自分がしている」という行為者の感覚(エゴ意識)の克服・排除にある。例え阿弥陀への絶対他力を信仰しようと「自分は阿弥陀を信仰している」と信じているだけならそれは自力過信にすぎない。


どの聖典にせよ、究極の真理においては諸法無我が説かれている。「自分は○○を信仰している」というその自己イメージを信じているなら諸法無我が明らかになることはない。自分(自力)でその我を維持し続けているのだから。


明け渡し、絶対他力とはバクティ(信)の観点からは自我の我力・我欲によるもがきの放棄である。ジニャーナ(智)の観点からは初めからそもそもその我というものが存在しないと知ることである。


つまりそこには自力も他力も存在せず、初めからただ至高存在の御力だけがあると理解することだ。それを知ってその知識に基づいて生きること、あるいはそれを信じてその信心に基づいて生きること、どちらも同じ結果となるのである。


それは時を要するものではなく今目のあたり経験されていることを究明してゆく働きの中にある。


私自身、トゥリーヤを体験したが、先の記事で描写したように気づきそのもの自体は常に継続してある。


神秘的な意識状態というものは確かに体験可能である。それを望み、その所存に応じた努力に励むのであればそれは実際に体験されるだろう。


例えばヨーガの瞑想におけるその技術体系はアストラル(霊的次元)からサマーディ(一時的な神との合一)にまで及ぶ。きちんと学びきちんと実践するならば如何なる体験もいずれ体験されよう。


私の場合はその希求を全て放棄して直接真理への探求に切り替えたらトゥリーヤは自然と体験された。何故かといえば頑なな私の心はそういう体験をしなければ個我・世界の非実在性への確信が確定しなかったからだろう。


頭では信じていても実際には信じられていない…それが私達のエゴというものだ。しかしひとたび自らそれを見て体験するならばその信は確定的な信となる。私は自らトゥリーヤを体験するまで確定が芽生えなかったということだ。


一方、純粋な人は別段神秘的な体験をせずとも、強い信がブレることなく真理・神へ固定できる。その真理という観念が心に根付きだせば後はそれ自体が自ずと真理に反する観念および要因を破壊してゆくことになる。全ての無知が一掃された時、真理という観念も自壊する。


全てが消え去った時、残るもの。


それが至高の存在、神、アートマン・ブラフマン、真我などと称される。