仕事し始めて思うのは、人には向き不向きが確実にあること。
人は人とかかわらないとダメになっていくこと。
そして、人間は非常に弱いということだ。
人は、なにかから逃げるときでもいつの間にか口実を作る。
自分は悪くない。周りがわるいのだと。
ネットの世界にいる人の数パーセントがここを逃げ場として使っている。
周囲がわるい。自分は悪くないのだと。
それはそれで利用の目的になりうるし、なんというかその意味では大変便利だ。
外ではなんとなく生活をし、ねっとでうさ晴らしをする。
できなかったことをここでする。
怖いのはその後だ。
こっちのほうが楽しいと思い始める。
ネットがいくら楽しくてもソレはネットでしかないということを言う人間がいるが
しかし最近そうでもなくなってきた。
この世界でかいものも商売もできるから、いきていこうと思えば生きていけてしまう。
楽しいネットの世界でずっと生活できたらという小さなありえない夢をかなえてしまう人がちらほら現れる。
それにあこがれる人間も現れる。
まぁ当然の話だ。
しかしここにこそ私は警笛を鳴らす。
私はかつて、ネットは返答のある書物のように思っていた。
コレを例に使うならば書物が生命を持ったような感覚だ。
ネットは一方通行だった読者に返答のかえってくる喜びを与えた。
しかし、そのころは作者がどのような人間か細かいこともわからない。
それでよかった。
わからないということはそれだけでいろいろな恩恵を与える。
知りたいという欲求と相反するが、それだけでよいのだ。
しかし、今は簡単に個人情報も見れる。
書物は完全な生き物となって待ち合わせをしてお茶を飲むぐらいのところまで近づいているし、
書物が刃物を持ってある日突然私の家のドアをたたくかもしれない。
そんなあいまいなグランドに逃げ場を求めるとどうなるか?
仮面を持つようになると私は思う。
命を持った書物はリアルと別の人間として独り歩きを始め、人格に破綻を生じさせる。
言い切れるわけではないが、そういう危険性をはらんでいるということだ。
私はこんな人生が歩みたかった。しかしリアルの私とは別物だ。という甘味な誘惑が人の人格を二つに分断する。
さぁどうする。
もともと人間の構造はそんなにうまくできちゃいない。
野生のかんだか本能だかで、どこかで自分にサイレンがなり始める。
このままじゃいろんなものをうしなう。
壊れてしまう。
しかしそんな時、助けを求めるのがネットの中の人だったとしたら?
そのくらい大丈夫だよという返答しかかえってこないのが実情だろう。
当たり前の話だ。傷のなめあい。他人の非に眼をつぶり自分の非にも眼をつぶる。
人格が割れてしまった人の忍耐力は計り知れない。
どんないやなことがあってもソレに耐え、これは別人の出来事だと理解するからだ。
そうしたとき思うのは
忍耐で手に入れるものの種類についてだ。
絶望していて忍耐強くなりなにがえられるのか。
希望なく、改善策も見られないことを耐え続けてどうなるのか。
先に希望があるならまだしも解決策から目をそらすために自分のコピーを作ったところで、ソレを忍耐と呼べるのか。
それは逃避に過ぎない。
問題を先延ばしにし、人とぶつかることをさけ憂さ晴らしの人格こそ自分だと言い張ろうとする人間が多くでてきたらどうしようと要らぬ心配をしているわけだが
なるほど、最近は些細なけんかすら戦争がおっぱ時待ったとカウントするらしい。
人間は人間とぶつかりながら成長していく。
やってしまったことにあやまったり
不条理に起こることもあったり
常識とは別だと思ったら協調性を最優先にしてルールを造ってきたはずではなかったか
つばを吐きたい世の中だが
こうして生きている私を好いてくれる人間を
静かに待とう。
ひとりで動くには、力不足だ。