司馬遼太郎さんの小説「峠」は、

越後長岡藩7万5千石の譜代大名牧野家執政

河井継之助という人物を、

江戸へ遊学する所から

戊辰戦争の激戦地として有名な、北越戦争で亡くなるまでを描いた、

上中下3巻なる長編小説です。

 

この原作をもとにしたのが、去年2022年に公開された、

映画「峠 最後のサムライ」です。

 

原作は、たしかに司馬さんの小説ですが、

表現時間の制約がある映画という媒体では、

原作の再現を余すことなく期待するのは難しいと思います。

 

小泉監督は、この小説の中から、

長岡藩が北越戦争に突入していく最後の年を取り上げました。

 

映画は、大政奉還がなされた二条城を写し、

東出昌大さんが演じる徳川慶喜が、政権を朝廷に返すくだりを言います。

 

大政奉還が、日本の国を思っての最終決断だったと言わしめてます。

外国の脅威が迫る時勢に、

国の内乱は避けるべきであり、

また、内乱は民を困窮させてしまう。

徳川家が一大名となり、みなと一緒に朝廷を助ける道を選ぶと。

 

映画は、これを起点として始まります。

 

徳川慶喜の出身である水戸藩が、江戸時代初期より、

大日本史という日本の歴史書を編纂し続け、

 

「もし江戸の幕府と京の朝廷のあいだに、弓矢のことあらば

潔く弓矢を捨て朝廷に奉ぜよ」

 

と記されていることを、

継之助の妻のおすが(松たか子さん)に、ナレーターとして語らせています。

 

脚本は、小泉監督が書いていて、

小説に描かれている継之助の言葉を、そのまま引用した部分もあります。

 

徳川の大政奉還に積極的な意義を持たせ、

その徳川に殉ずる継之助や、彼が率いる長岡藩の正当性を表したい、

監督の思いを感じました。

 

「この戦いには意義がある。」

 

「余念を持つな」

 

 


映画での戦い関連の時間の流れ

  

慶応3年(1867年)10月 大政奉還

 

翌、慶応4年は、閏月がある年です。

 

1月から始まって、2月3月4月となり、次が閏4月、

その次に5月6月というふうに、月が進んで行きます。

1年の中に、13月あるのです。

なので、この年の旧暦の月日は、

現在の暦と1ヶ月以上ずれています。

 

 

慶応4年(1868年)以下 旧暦:太陰太陽暦 で表記

         *()内太字は太陽暦 現在の暦と同じ感覚の日にちです。

 

         1月3日~6日 鳥羽伏見の戦い(1月27日~30日)

         5月2日 小千谷会談(6月21日)

         5月4日 長岡藩開戦決定 奥羽越列藩同盟となる(6月23日)

         5月10日 榎峠の戦い(6月29日)

         5月11日 朝日山の戦い(6月30日)

         5月19日 西軍が信濃川を強行突破 長岡城落城(7月8日)         

         7月25日 長岡軍八丁沖を進み、長岡城奪還 

              継之助、負傷(9月11日)

         8月5日  継之助、八十里越えから会津只見に入る(9月20日)

         8月16日 継之助 会津塩沢で亡くなる。享年42 (10月1日)

 

あと、ひと月持てば、東北や新潟は冬の季節になる。

雪という援軍がやってくるのである。

 

その時まで持ちこたえられなかった継之助や会津藩は、

きっと、ほぞを噛む思いだったのではないだろうか。

 

 

 

長岡城落城

 

長岡城が落城してしまったのは、城を守る兵士たちに、

少年や年を取った者たちが多かったのもその一因といえる。

 

長岡城を守るにあたって、

南に位置する榎峠や朝日山で敵を迎え撃つとした継之助は、

こちらの方面に主力部隊を使ったため、

長岡城が手薄になってしまったのである。

会津藩兵や上杉藩兵も、長岡の戦いには参戦していたが、

長岡兵の数が、もともと新政府軍に比べて多くないという当初からの弱点もあった。

 

映画でも継之助が言っているように、信濃川が城を守る堀となっている。

ちょうど梅雨の時期なので、信濃川の水量は多い。

なので西側は、信濃川が守ってくれるという構想は定石ともいえる。

平城の長岡城は、もともと信濃川をそう位置づけていた。

 

城は、信濃川が守るという前提での、朝日山、榎峠の戦いの布陣なのである。

 

長岡城は平城で、梯郭式(ていかくしき)といわれる作りのお城です。

 

         長岡城のジオラマ 長岡藩主牧野家資料館より

          手前が西 信濃川方面  

         中央部あたりが本丸

 

 

         黄色と紫色の線が交差しているところが本丸         

         黄色の線が現在の大手通りで、

         大手門(城の正門)があった所

         信濃川はこの先にある。

 

         本丸の斜め下左が三の丸 同じく右下が二の丸

         本丸あたりが現在のJR長岡駅付近

 

         大手門(大手通り手前)の右斜め上に見える

         茶色の建物は、家老板垣平助邸

 

         板垣邸の斜め左下にある茶色の建物は、家老山本帯刀邸

         河井継之助邸は、三の丸の北方向で、この図の外。

 

         城下では、身分役職の上下によって

         その家の位置が決められていた。

         継之助は、最後は家老格になったが、

         元々は家老の家の武士ではないので、

         その生家は大手門近辺ではない。     

         

 

西軍が信濃川から進軍してきたとき、

それを知らせるため、西福寺の鐘を長岡藩士が力の限り乱打したそうです。

西福寺は、信濃川からゆっくり歩いても10分位のところです。

目の前に敵が迫りつつも、必死に知らせたのではないかと思います。

信濃川を渡ってしまえば、長岡城まですぐなのです。

 

 

         西福寺の鐘

 

 

<行き方>

 

西福寺への行き方

 

JR長岡駅大手口より徒歩約10分

長岡駅から信濃川に向かって歩いて行く途中にある。

幹線道路からはいった、住宅地の中を通る道を歩くので少しわかりづらい。

 

長岡藩主牧野家資料館への行き方

 

JR長岡駅大手口バスターミナル10番乗り場より

「南循環内周り」・「宮内本町」行き または「免許センター」行きで

 市立劇場前下車 徒歩1分

 

バス便の本数は少ない。

長岡駅から歩くのには、かなり距離がある。

 

 

<気になる言葉>

 

梯郭式・ていかくしき

城の作りの種類の一つ。

築城場所の一番高い所に本丸を置き、だんだん低くなりながら、

二の丸、三の丸を張り出す構造の城郭。

 

長岡城の場合、信濃川の中州にあって、

本丸から川の方へに向かって、二の丸、三の丸が作られた。

 

本丸の一角には、御三階(おさんがい)と呼ばれた櫓があり、

堀の水面から屋根の鯱鉾(しゃちほこ)まで、

およそ23メートルあったと言われている。

 

殿様がここに登り、城下の領民やその様子を見ていたとも言われている。

 

 

櫓・やぐら

「矢倉」あるいは「矢蔵」とも書く。

武器の保管庫である。

有事の際は、敵の動きを見張り、敵を迎え討つところでもある。

 

 

旧暦・太陰暦

 

旧暦は、太陰太陽暦

現在、「旧暦」、あるいは「太陰暦」といわれているのは、

太陰太陽暦のことである。

 

太陰暦は、月の満ち欠けで日をきめる暦である。

月を見ることによって、

大潮、満潮など漁に必要な情報を得ている漁師は、

それだけでもお互いに日にちを確定出来る太陰暦は理にかなっている。

 

しかし、一方、農民にとっては、月だけでは不十分で、

太陽の動きで測る暦がほしい。

作物を育てる生業の農民には、

季節の変化がわかる太陽の動きを知る必要があるからである。

 

どちらの民にも都合がいいということで、

太陰暦と太陽暦を調整したのが、太陰太陽暦である。

 

中国では太陰太陽暦

中国では古代より、この太陰太陽暦が発達し、

中国の文化を輸入してきた日本でも、この暦が利用されてきた。

 

当時より、中国は、東アジアの中心的な国であり、

中国、朝鮮半島の国と交流する日本にとっては、

中国と同じ暦を使用する必然性はあった。

 

太陰太陽暦は、月の満ち欠け(朔望)で日を数えて月を建て、

太陽の動きで季節を知る暦である。

 

太陰太陽暦と閏月

 

太陰暦と太陽暦との間では、

1年間で、約11日のずれが生じてしまうため、

3年に一度、1ヶ月を増やすことによって調整している。

 

これが、閏年の閏月である。

 

戊辰戦争があった慶応3年(1868年)は閏年で、4月が閏月であった。

 

ちなみに、慶応3年は、

大の月は、2月、3月、5月、8月、10月、11月であり、

小の月は、1月、4月、閏4月、6月、7月、9月、12月であり、

全部で13ヶ月あった。

 

また、慶応3年の元旦は、今の暦で言えば、1月25日である。

 

明治時代になっても、太陰太陽暦は使われていたが、

それまで以上に諸外国と関わるようになり、

不都合不便を解消するため、グレゴリオ暦に改暦した。

 

1873年(明治6年)、東洋の独立国としては、

日本は、最初にグレゴリオ暦を採用した国である。

 

明治政府が、明治5年(1872年)の12月3日を、

明治6年1月1日とすると決めたのである。

 

なので、明治5年の12月は、3日までしかない。

 

グレゴリオ暦は、現在も、世界の多くの国で採用されている暦である。

ただし、この暦にも欠点はいくつかある。

 

例えば、

1月から12月までの月ごとの日数が同じではない。

28日、29日、30日、31日の4種類ある。

毎年、月日と曜日が同じではないというのも、一つの欠点である。

 

<おまけ的余談>

 

おまけ:その1

映画の中で、西軍と東軍が、どの藩かわかるように記した日本地図が出てきます。

 

西軍として

加賀藩、飯田藩、丸岡藩、松代藩、福井藩、上田藩、

彦根藩、高崎藩、尾張藩、館林藩、浜松藩、宇都宮藩

 

東軍として

長岡藩、新発田藩、会津藩、棚倉藩、二本松藩、米沢藩、

山形藩、庄内藩、盛岡藩、仙台藩、請西藩

 

この地図の中に、小泉監督が東軍として、

上総の請西藩を入れているのに感激しました。

 

請西藩は、藩主自らが脱藩し、

佐幕派として戊辰戦争を戦っています。

そのため、幕末の300藩あまりある藩の中で、

唯一お取り潰しになった藩でもあります。

 

会津若松市にある白虎隊記念館の中にも、戊辰戦争の東軍として

請西藩の名と藩主の林忠敬公の名前が列記されてます。

 

おまけ:その2

平安時代末期以降、武士階級が台頭、鎌倉幕府の成立によって、

地方の東国にも、暦の需要が増してきた中で、いくつか誕生した暦がある。

 

その中で有名なもののひとつに、会津暦がある。

 

会津若松市にある諏訪神社の神官(諏訪、佐久、笠原)3家と

城下七日町の町人菊地庄左衛門の家から刊行された暦である。

 

会津藩領を中心に、広く東北地方だけではなく、関東の北部までにも普及した。

 

幕末では、会津藩が幕府命によって治めていた北海道松前地方にも及んでいた。