久々に、こんな本当の事ばかり
はっきり書いてある記事を読んだ。
消えたら困るので全部転載する。






悲惨な子ども虐待事件が無くならないのは親の大半が愛着障害だからだ

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元祖リバータリアンであるアイン・ランド研究の日本の第一人者として知られる藤森かよこ氏(福山市立大学名誉教授)が上梓した『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』(KKベストセラーズ)が女性エッセイの売れ筋ランキングで1位を獲得している。とくに子育て世代である35歳から45歳の女性の支持が厚い。今回は、藤森氏が日本の大きな社会問題となっている虐待に関して、メディアのあり方、家族のあり方、そして社会のあり方について、語る。

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■あまりに残酷無残な虐待はメディアもあまり報道しない

 報道されていないから、起きていないわけではない。メディアが騒ぐ子ども虐待の事例も残酷だが、もっととんでもない残虐無残な事例は、あまり報道されない。

 NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班編『ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る』(NHK出版新書、2015)や、宮田雄吾『「生存者」と呼ばれる子どもたち 児童虐待を生き抜いて』(角川書店、2010)を読むと驚く。まさしく、事実は小説より奇なりだ。

 2005年に福岡市で、裸足で歩道に立つ女児が発見され保護された。長さがバラバラの髪の毛は、あちこち引き抜かれ頭皮が見えていた。着衣には血痕がついていた。身長120センチ体重22キロの女児は、実際は18歳だった。18年間も母親に家に監禁され、小中学校にも通えなかった。父親や兄や姉は、母親のすることを見て見ぬふりをしていた。誰も母親の暴挙を制しなかった。意味不明な家族である。

 2014年には神奈川県厚木市で、5歳くらいの男児の白骨死体がアパートの一室のゴミの山の中で発見された。役所に出生届は出されていたが、この男児は小学校にも中学校にも通っていなかった。母は家を出て、父は息子をゴミの中に放置した。こういう人生がある。

 親のネグレクトのために、トイレで排便をすることすら教えられずに、小学校高学年になっても大小便ともに垂れ流したままの男児もいた。小学生4年生で養護施設に来たこの男児の放つ悪臭を何とかしようと下着を脱がせた職員は仰天した。からからに乾いた大便が大量に男児の臀部一面を覆っていたからだ。この男児が、排泄をコントロールして自分で処理できるようになるのに3年間かかった。

 

■妊娠中絶が犯罪者を減らした

 ところで、1990年代の初頭あたりのアメリカ人は、未来は一層に凶悪犯罪が増えるだろうと信じていたのだが、実際のところは、2000年にはアメリカ全体の殺人率は35年前の水準にまで下がっていた。単なる暴行から窃盗まで減った。なぜか? 

 それは、1972年にアメリカで妊娠中絶が合法になったからだ。つまり、子どもを犯罪者に育ててしまう類の機能不全家庭を形成するに違いないタイプの女性が、妊娠しても子どもを産まないですむことができるようになったからだ。

 ということが書いてあるのは、スティーヴン・J・ダブナー&スティーヴン・D・レヴィット著『ヤバい経済学---悪ガキ教授が世の裏側を探検する』(望月衛訳、東洋経済新報社、2007)だ。

 アメリカのキリスト教原理主義者は妊娠中絶手術を行う医師を殺害するほどに妊娠中絶を蛇蝎視する。しかし、生まれたら、必ず親に虐待され、長じては犯罪者になるしかない哀れな人間を生産しないですむ妊娠中絶の功徳については何も言わない。


■親の少なくとも3分の1は親の機能が果たせない

 問題は、自分の生育環境の悪影響により、特に愛着障害のせいで親として機能できないかもしれないと自己省察できない類の人間が、安易に親になることだ。

 岡田尊司は『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(光文社、2011)において、人間が幸福な人生を創ることができるかどうかは、人格形成の土台である人生の早い時期に信頼できる養育者を得ることによって安定した愛着を獲得できるかどうかにかかっていると言う。

「愛着」とは、自分の人生や、他者を含む世界への根拠なき信頼である。この信頼は、自意識のできる前の段階において、自分が養育者によって受容され求められる(=可愛がられる)経験を日々いっぱい味わい蓄積することによって育まれる。

 暴行などの物理的虐待であれ、心理的虐待であれ、ネグレクトであれ、養育者の言動によって、自分の人生や世界への無自覚なる根拠なき信頼(=愛着)を持つことができなかった人間は、他者や世界に対して不安や恐怖を持ちやすい。これが「愛着障害」だ。

 愛着障害者は、自己防衛が過ぎて攻撃的になったり、不必要に過剰に利己的になったり、自分でも言語化できない混乱に翻弄されたり、人間関係の結び方や他人への距離の取り方が下手だったりする。

 岡田によると、成人の3分の1は、「愛着障害」である。その成人の3分の1を占める愛着障害者の親もまた愛着障害者である。自分の愛着障害を意識化言語化できないままに親になった親は、自分の子どもに根拠なき生への確信を植え付けることができない。虐待が世代的連鎖しやすいように、その結果の愛着障害も世代的に連鎖しやすい。

 つまり、もう私たちは認めるしかない。成人の3分の1が愛着障害者であるのならば、親になった人間の3分の1は親として機能できない可能性が高いと。では、どうするか。

 

■子どもに世界への信頼感を与えることは社会的コスト削減になる

 生まれてくる子どもの少なくとも3分の1は、愛着障害の原因となるような虐待を受け、生き延びて大人になっても、その後遺症は生涯にわたり続く。彼らや彼女たちは、まともな社会人として自立が難しく、社会にとって負担となるかもしれない。

 この少子化の時代に子どもは貴重だ。子どもの3分の1が長じても社会を支えることができなくなるとしたら、なんという社会的損失だろうか。

 親として機能できない親を批判してもしかたない。親として機能できない親の代わりに、根拠なき生への確信を子どもに与えることができるシステムが必要だ。

 まずは、児童養護施設にもっと予算を割き、職員や里親に研修機会をより一層に提供することにより、愛情を込めて児童を養育することができる人材を確保することだ。親に代わって、子どもの心に自己や世界への根拠なき信頼を根付かせることは、大きく見て社会のためになる。

 日本国には、日本の子どもの3分の1を棄民して構わないほどの実質的人口はない。高齢者施設で余生を過ごす高齢者は、どれだけ数多くいても、実質的には人口のうちに入らない。これは老人差別ではない。事実だ。

 言うまでもなく、社会主義国やイスラエルのキブツの例が示すように、児童養護施設のような集団的養育の場は、家庭や家族の完全な代替物にはならない。みんなのお母さんは、私のお母さんではない。しかし、虐待する親より児童養護施設のほうがはるかにはるかに安全だ。

 親と暮らさなくても、あなたは生きていける。親と暮らさなくても、あなたは幸福になれる。親が馬鹿でも、あなたとは関係ない。大人なら誰でも、子どもたちに機会があれば、基礎知識として何度も何度も伝えよう。

 

 ただし、児童養護施設の職員や里親による児童への虐待は起こりうる。アメリカのボーイスカウト連盟は、少年に対する性的虐待で訴えられ、その賠償金で破産した。カトリックの神父の信者の児童への性的虐待をバチカンの教皇が謝罪した。学校の教師による盗撮や性的虐待の事件は、もはや珍しくもなんともない。そういうことをする人間は、どこにでも棲息する。彼らにも人権はあるので完璧に完全に駆除できないのが残念だ。

 この事実も子どもに何度も伝えよう。そのような実例に遭遇したら、どう行動するべきか訓練しておくべきだ。お花畑ではない世界について子どもに知らせるのは、非常に辛いことではあるが。

 

 現状では18歳になると児童養護施設から退所するのが決まりだ。20歳まで入所していていい場合もあるが。希望者にはせめて大学を卒業するまでは所属可能にし、返済免除の奨学金を給付すべきだ。

 そんなことになったら、子の養育の責任を果たさず、他人の金(税金)で済まそうと思う不埒な親が出てくる? 確かに。しかし、どんな社会でも、クズは存在する。この世の常として、それもしかたない。

 ともかく、親の3分の1は親になる能力がないと認めよう。親はなくとも子は育つシステムを作ろう。子どもに無償でなにがしかを与えよう。そのことによって、親が与えることができなかった、この世界への根拠なき信頼を彼らや彼女たちが心の奥にゆっくりじっくり育むことができる助けとなることをしよう。それが、ひいては私たちの社会を守ることになる。

文/藤森 かよこ