昨晩風呂に入りながら
久しぶりに気がついたのだが


新しく張った湯が
ステンレス浴槽の中でたゆたうさまは
ちょっと驚異的なまでに美しいのである。


水底で光学的に歪む足
天井の灯りを反射する水面
肌に触れる暖かい湯の重量
それを感じている自分。


あーー  そうだったそうだった、
この世界はこういう
ものすごい場所だったんだった。


台所では
モラ尾君と子供が楽しそうに話している。
そこには以前と同じように
恐怖やストレスを発生させる
「可能性」という「物語」が 蠢いている。


が、そんな事より君、
今はこの鈍く輝く水を見たまえよ。
と私の身体は言った。


子供は元気で育つのかしらとか
私はちゃんとやっていけるのかしらとか
探せば不安は無限にあるのだけれど


確かな事は


今私はここに元気で生きていて
無一文ながら とりあえずの家はあり
熱い湯船の中で 水の美に圧倒されている、
そういうことなのだった。


もう一つの
そうだったそうだったは、
私の人生は
物語の途中経過ではないという事実だ。
本来、マクラもなければオチもなかった。
「物語」をなぞることに慣れすぎて
何をするにも
ヤマ場とオチをつけなきゃと焦って
いつも今を見失った。


私はただ この不思議な世界の一部として
常にこうして有るだけなんだった、
そうだった。


こんな単純で大事な事を
私はいつもいつも 思い出しては
しつこいほどにまた忘れる。
まあそれも含めて不思議の一部なのだろう。


それでもあえて物語が必要なのだとしたら
私は私の物語を自分でこしらえて
死が 私をほどくまで
えっちらおっちら生きていこう。