「自分なんか無い」ともう分かっているのに
無い筈の自分がのたうちまわった
この一か月であった。
正確には、頭と身体の各部分が
それぞれのニーズに合わせて反応を起こし、
またそれが相反しているものだから
久々に身が引き裂かれる系の苦しみを
味わったという事だ。


しかしモラ尾君に会いさえしなければ
私はもうかなり大丈夫だ。
胸が押し潰れる離脱の痛みは逓減しつつある。
外に出れば出るほど、人に会えば会うほど、
モラ尾君に割いていた心のスペースが
自分用に戻って行くのがわかる。


モラ尾君は インターネットのためか、
ずっとこの家にいる。今まで通りだ。
あちらのアパートも住めるように
少しずつセッティングしているようだが
いつ移るのかは分からない。


モラ尾君を忘れなきゃ、
ではなくて
早く自分を取り戻さなきゃ、
なのである。


もうモラ尾君と書くことも
考えること自体も嫌だ。チーン
構造も思考も自分なりに理解しつくしたし、
自分自身については今総仕上げの段階である。
後はただ
世界を感じて動く事しか残っていない。


まだ時々、仕事場の女性スタッフと
普通にやり取りをしているモラ尾君を見ると
自分はあんなふうに
対等な位置に居れなかった事を思い出して
胸を突かれたように悲しくなることがある。
しかしそれももう
単なる記憶による反応になってきた。


一昨日、昨日と
泊りがけで好きに動き回ったので、
とても楽しかったけど疲れた。
人と話せば話すほど
自分が いかに がんじ絡めの生活に
甘んじていたかが分かる。


うちに来てくれている顧客の方々には
奥さん働き者で、本当によくやっておられて、
目が回りませんか、私にはとても、
としょっちゅう声をかけて頂いた。


何年もの間、私の気力がギリギリ持ったのは
そんな風に 外部の評価が入り込む隙が
この家にはあったからだと思う。


理性では私は普通に働ける人間の筈だが
感情はまだ少し怯えている。


小さなアパートを自分で借りて
この家にはもう戻らず
家事も自分と子供の分しかやらず
行動や居場所を「評価」されない生活のために
私は動きたい。


くじけた時はその時考えよう。