アウシュヴィッツの生き残り作家さん、

渋沢龍彦の元嫁作家さん(まだ名前ググってない汗)、

なんだっけ西部さんとか?保守派論客だった方とか。

哲学者さんにもいませんでしたっけ。

 

 

強烈な人権剥奪暴力支配をくぐり抜けて

その後数十年を生き延びたにもかかわらず、

行きてる間は脳みそフル稼働で考え続けたにも関わらず、

みなさま老後にドンだかジワジワだか来て

自死を選ばれております。

 

 

そこに至るまでの心象風景などは

他人である私には分かりようも無いのですが、

似たような境遇をくぐった者として推測するならば

 

 

気丈に消化し、成仏したかと思われた

深すぎる絶望の生傷が

まだダクダクと鮮血を流しながらそこにあることに

老いて疲れた時に改めて気づき、

もう笑いの力も 皮肉の力も 鋭い考察も

それを修復することはできなくて、

ただただ痛みと悲しみに押しつぶされてしまったのじゃないかと。

 

 

自分の人生、ひたすら無力で無意味だった、と。

 

 

こう思うのは、私自身が時折その波に飲まれて

涙が止まらなくなったりすることがあるからです。

死のうとまでは思いませんが。

 

 

と、こう書くと

まるで死ぬのがダメなことみたいな言い方になるのですが

死ぬのはいいんですよ。

いや良くはないけどショック汗いいんです。

そんなのそれぞれの選択ですから。

 

死んだ人はもう楽になってます。多分、無になってます。

残された人間や、その話を伝え聞いた

生きることに望みを持ちたい人間が、

『そんな悲しいこと言わんでくれ、こちらの心が折れる...』

って感じてるだけの話です。

 

私には 自殺の是非は分かりません。

なんか、やっぱ悲しいなあ、

他にやりようはなかったのかなあ、

というふうに感じます。

 

死んだ本人と

残された人間の気持ちを

混同しちゃってるんでしょうね。

境界線の罠はここにも存在します。

 

 

 

人間、深く深く疲れて弱ると、死にたくなるもんです。チーン

元気になると俄然、欲をかきだします。ちゅー

これは私の話です。自分で自分に呆れましたもん。

 

 

自殺した親戚が二人いるんですよね。

 

 

おばと、父のいとこ。

二人とも鬱からの自殺であったように聞いています。

二人に血縁関係はありません。

 

 

自殺で亡くなったと聞いたときには

わあ.... 

と、思いました。

 

 

後年自分自身が自殺したくなって

ちょびっと試したりなんかしたときに初めて

その二人の潔さと勇気、

自分で自分の苦しみにケリをつけた力強さに

逆に驚かされてしまいました。

 

 

自殺、マジ怖いですって。

すっげえ勇気要りますって。

はずみってのもあるかもしれないんですが

その二人の亡くなり方には

周到に計算された準備と

目くらましのための演技すら付いていました。

 

 

ダメだ、自殺とか超甘かったわ。

そこまでの覚悟、私できてねえでやんの。

絶望とか言ってもたいしたことねえじゃん...

おばちゃん、マジリスペクトだよ...

 

 

そう気づいたので、二人に敬意を表す意味でも

私は生きることにしています。

 

 

あともうひとつ、

人生で問答無用に襲ってくる理不尽に

打ちひしがれてる方々ってのは

無数にいらっしゃいます。

戦災しかり、震災しかり。

不意打ちの事故事件しかり。

人類史なんかそんなんばっかりですよね。

 

 

でもその生き残りの方々が

みんな自殺してるかって言うと違う。

苦しみながらも最後まで生ききってる方の方が断然多い。

 

 

その方々と、死を選んだ方々の違いってのは何なのだろう。

どっちが良いとか悪いとかの価値観の話じゃなく、

ただその違いは、どこにあるのか?

 

 

そんなことを考えてみましたが、結論は出ませんでした。