脳が壊れた僕と発達障害の妻が、最後に皆さんに訴えたいこと されど愛しきお妻様【最終回】(現代ビジネス)
これはシリーズものの最終回なのだが、
人格障害、発達障害、脳疾患とそれをめぐる家族の状況を非常にニュートラルに記述した内容であると思う。
加害している時のモラの内面は、被害者としての意識で構成されている事は端的な事実である。本人が心から被害者側だと思っているため、第三者にその恐ろしさが伝わらないことは実際多い。
究極、パートナーや子供を殺しても、その加害者は心から被害者のつもりでいることも、よくある話なのだ。
この世には単純な善悪で決められないことばかりだ。男女の関係もそう、親子の関係もそうだ。
モラ夫や毒母さんたちが 不健康な親子関係の中、脳をひねくり回されて育って来たのは重々承知だ。生まれつきの発達障害でモラ化した人もいる。全ての物事には因縁があり、前後関係があり、ドミノ倒しによって起こる。
つまり責任は突き詰めれば誰にも取れないし、そもそも責任などこの自然界には存在しないのだ。責任とは、人間が人間社会で作り出した単なる概念であり、通貨のようなものだ。それは限定された世界でしか通用しない。
だからこそ善悪や正誤の判断に、
「好悪」
つまり、好きか嫌いか、という項目を加味しなければいけない。
モラさんたちに言いたいことは、
あなた方に罪がないことは知っている。だが私はあなたが大嫌いで、離れたい。
それだけのことである。
あなたたちがかつて被害者だったことと、それが全ての免罪符になるわけではない、ということ
他者はあなたを嫌いになり、逃げ出すことがある、ということ
家族も恋人も、他者である、ということ
この厳然たる現実群である。
この記事内のお二人はそれでも愛し合っておられる訳だが、それも彼らの独自の形であり、他者には当てはめられない。
やりたかったらする、
やりたくなかったらしない。
「であるべき」の理屈は無下にはできないが、
その基本の「好悪」を忘れてはいけないとも思う。
※ 参考文献
小坂井敏晶 「社会心理学講義」