愛-Wikipedia


愛の定義も色々あろうが、
ここ日本での古くからの愛の定義は
以下のようなものである。


日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味した。


明治以降、西洋的な愛の概念が大量流入し
日本における愛の定義も相当広がったのだが、
現在においてもおよそ上記のような感情が
愛とされているのではないかと思う。


今回書くのは、
私自身の子供に対する愛についての考察である。





ニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコ





初めて産んだ子供を抱き上げたとき、
とにかく元気に生まれてきてくれたことに
ホッとした事を覚えている。


退院の日。一週間ぶりに帰ってきたアパートで
私はまだ頭がグラグラする赤ん坊を
慣れない手つきで恐る恐る抱き上げ
モラ尾に手渡した。


モラ尾は言った。


「なんだその表情は‼︎ 俺に子供を手渡すのがそんなに嫌か‼︎ 嫉妬だろう、嫉妬してるんだろう‼︎ 父親なんかに子育てはできないと思ってるんだろう‼︎ 他の日本人の母親のように、子供を囲い込んで父親を締め出す気だろう‼︎ 」


憎々しげに、叩きつけるように、
モラ夫はそう言った。


ショックで頭が    クワーン   と鳴った。


え?  え?  嫉妬?
嫉妬してた?なんで?


確かにグニャグニャの赤ちゃんを持ち上げて
手渡すのは怖い、と思ったけど、
それは嫉妬でモラ夫を信用してないって
事だった?


私が自身の感情に対して
明確に把握する自信を無くしたのは
この日だったように思う。


それ以来、私は子供に執着しないよう
細心の注意を払う母親になった。
モラ尾に責められたくなかったのと、
なにより子供を私とモラ尾の
板挟みにはしたくなかったからだ。


抱っこは危険を孕んだ行為になった。


私が子供に対してやる事は
モラ尾の気にいるかどうかを
真っ先に考えるようになった。


モラ尾は自営でいつも家に居たし、
教育に一家言も二家言もある男だったので
私は子供を胸に抱いていても
いつもどこか遠巻きに眺めているような
感覚だった。


現在。私は子供を愛してはいると思うが
いざとなったら一旦モラ尾に託して逃げていい、
と思うくらいには醒めた母親である。


もちろんそれを実際にやるのは不安だ。
いくらモラ尾が今のところ子供には
暴力や暴言を振るわない親だとはいえ、
これから先子供にしっかりとした自我が
確立していく十代を迎えたら
どうなるかは分からない。


しかしそれでも、
意地でも子供はあたしと一緒にいるべきだ!
離れるのが辛い!とは感じない。


多分それは、私の子供は、生まれてこのかた
一度だって私のものだった時がなかったからだ。


成熟した愛とは、相手を思いやり
近くにいても 離れていても
相手の健康や幸せを願う気ちの事だと
思っている。


しかしそんな成熟した愛も、
相手へ執着するステージを経てからでないと
私のように どこかふわふわした
実感の伴わないものになってしまうような
気がしてならない。


自分勝手で子供っぽくてわがままな、
相手の注目を独占する幸福。
原始的な所有欲としての愛。


原始的だけど、すべての愛はそこから始まるし
その初めはそうあるべきなんじゃないか。
というのが私個人の実感である。


一方、その原始的な愛を全く成熟させないまま
延々と繰り返し続けるモラ夫や毒母たち。


それは、
色付く事も無いまま小さく枯れ落ちていった
萎びた林檎の実のようだ。



{E71D5A39-0D14-4AAB-9A36-87FEA3D91601}