I, pet goat II。
2012年当時、かなり有名になった作品です。



私がこれを観たのは
第二次〜第三次モラ対戦ぐらいだったかと
思うのですが、
当時から陰謀論系の言説に傾倒していた
モラ尾から教えてもらって観たのです。



映像に出てくる様々な象徴的な物や図像は
よく謎解きの対象となっています。



作った人々の本意や細かな解釈は
私には計り知れませんが



私にとってこの作品は
モラハラという現象の全体像を
総括したとでも言うべきものでした。
衝撃でした。
衝撃というか、文字通り、目が覚めて
あたりを見回した感覚でした。



モラハラとは、
今の世界全体を
覆い尽くしている
歪んだ強欲な力学そのものだ。



それが表現されていると理解しました。



モラハラとは、
搾取と支配のピラミッド構造です。



ひたすら、
下位の人間から限界まで搾取し続けるため
精神的・物理的な機関です。



各家庭のモラ夫は、
その下位の下位の下位の下位の下位の下位…
ぐらいに位置した、下級も下級の搾取者です。
モラ夫自身、さらに上のモラ達から
搾取されています。



その世界での私は家畜であり、奴隷でした。
その私ですら、
更に貧しく弱い世界の人たちの
搾取者であるのです。


様々な、意味ありげな物語を
延々とがなり立て垂れ流し続けるメディア。
お仕着せの正義と良識とを使って
そこから外れないように必死にさせる手口。
いつも漠然とした罪悪感と焦燥に苛まれていて
不安や自責の念を心に刻みつけてくる。
次から次へと起こる新しいプロジェクトや
目まぐるしく続く事件や事故。
彼らの話に耳を傾け心を砕いている限り、
毎日がジェットコースターに乗ってるみたいで
芯から安心したことなんかない。



なんだ。これ、モラ夫じゃないか。



私が慣れ親しんできた世界そのものが、
もう最初から、ずっとモラハラだったんだ。



皮肉なことに、我が家からテレビを排したのは
モラ尾自身でした。
私自身、テレビが付いていると疲れるので
随分前から観ていませんでした。
面白くて為になるコンテンツが沢山ある事は
知っています。でも、それと同時に
ガラクタと廃水も飲まされる。



ああそうか。
聴きたくなけりゃ、観たくなけりゃ、
捨てるかその部屋を出るかすれば
いいだけなんだ。



何故私は、いつまでも廃水を垂れ流すテレビ
…つまりモラ夫を。
口を開けて眺めていたんだろう。



そんな事もうとっくにわかっていた事なのに。
私は、何故か、生きながら眠っていたんだ。


昔、少しだけ目覚めていた時が
あった気がする。
でもいつからか、眠るようになっていた。
それは、学校というものに通い始めた辺りから
だったような気もするけれど、定かではない。
お父さんとお母さんといた時からもう、
少しだけ不安だったような気もする。



全ては仕組まれている、なんて言いません。
また、仕組まれているかどうかは
問題ではない気がします。



ただ、世界がそうなっていると知ること。



テレビに罪はありません。
とても便利な素晴らしい道具です。



ただ、すぐにモラ精神に
乗っ取られてしまっただけ。



民主主義も

アメリカ合衆国も

宗教も

文化も

憲法9条も

ガンジーの非暴力主義も

目には目を、の思想も



全部、その時代のモラと闘って作った物だった。
初めは希望に輝いていて 優しくて 公平で
みんなが幸せに暮らす為のものだった。



でも、あらゆる思想、あらゆる主義
あらゆる技術にあらゆるシステムは
必ずモラに乗っ取られます。必ず。
そして、モラの道具と成り下がります。



私の闘いがまさにそうでした。
私の責任感、私の発言、私の行動、趣味、仕事
立ち居振る舞い、食べる物に食べ方、
子供達への想い  家族への想い



全てはモラハラの道具として利用されました。



どのように対処しようとも
弁護しようとも
修正しようとも



乗っ取られて道具になりました。


世界のテロリスト達が
どこまで「本物の」テロリストなのかも
定かではありませんが



私には、「本物の」テロリスト達は
怒りの地獄に堕ちた悲しい貞子達に見えます。
そうしてその悲しみと怒りからくる暴力を
強大なモラに利用され、
さらなるモラ帝国権力の拡大に
一役買ってしまっています。



どうしたらモラ世界に勝てるんだろう。
どうしたらモラ世界から抜けられるんだろう。



私にはまだわかりません。



でも、方法がない訳ではない。



そんな気がしています。