心の安心・安全と引き換えに
見返りを要求する行為。

私はこれを「愛の経済化」と呼んでいます。
マーケット化、と言ってもいいかもしれません。



個人的な感覚としては、
愛の経済化は せめて、6歳位まで待つのが
良いのではないかと思います。

その年齢までに、充分に
無償の「精神的」安心・安全を受け取った
子供は、その脳の発達と併せて
安心・安全感の自給自足力を
付け始めるからです。


自給自足力がついた後ならば、 
現実社会に存在する経済原理を
心のダメージ無しに受け入れ
逆にその負荷をバネに伸びる事も可能です。


その時期までに 精神の安心・安全が
足りていなければ

脳の発達が器質的に遅れたり
器質(ハード)的には十分でも
プログラミング(ソフト)的にバランスの
取れない状態となり

成熟(自給自足)までの時間が
延長されたりします。

モラハラ加害者、一部被害者は、
永遠に延長された状態ではないかと思います。



さて、この考え方に立って
「褒めて育てる」という行為が
どのような意味を持つのかを考えてみます。
 


良くある褒め方として
「凄いね」
「上手だね」
「○○ちゃんは足が速いんだね」
などがありますが

これらは全て
「評価する言葉」です。

上手いか、下手か。
良くできるのか、出来ないのか。

ベクトルはプラス方向ですが、
マイナス方向も存在する事を示唆しています。


つまり、6歳以前の未成熟な時期から
この言葉をかけ始めると


「上手くできたら人は笑顔をくれるけど
   失敗したら、くれない」


という経済原理を
早くから伝えることになります。


自分は自分のままでは愛されない。
常に何ごとかを成し遂げ
自分ではない何者かであらねばならない。


というメッセージになるのです。

自給自足の準備ができる前に
何者かであらねばならないと焦り
キャラクターを自己規定しなければ
ならなくなります。


できなければ精神的に死ぬからです。


何をしてもひたすら褒められ続けた場合は
無責任に与えられた
幻想の「できる自分、凄い自分」を
維持し続ける為に その後も
莫大なエネルギーを
費やし続けなければならなくなります。
現実社会では数々の競争相手が存在し、
常にトップである事は
事実上不可能だからです。

結局、その幻想を支えてくれるイエスマンか
褒め続けてくれた保護者代理の存在を
身近に置いておかなければならなくなります。


以前ぱふぱふさんが示唆された
連続強姦殺人犯、大久保清は
この無責任褒められコースの
卒業者のように見受けられます。


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6歳位までは、褒める代わりに


「○○ちゃん、これ描いたんだねえ(笑顔)」
「いっぱい走ったねえ(笑顔)」
「転んで痛かったねえ(痛い顔)」
「美味しいねえ(笑顔)」
「出来なくてガッカリしたねえ(残念顏)」


と、ただオウム返しに
子供の気持ちや行動に共感すれば
一番嬉しいのじゃないかなと思います。


私は、褒められるより
こっちの方が好きです。
(^-^)