>自己とは、外界からの刺激によって発生する電気パルスの一種。外界、他者、ボールを打ち返してくれる壁無くして自己(のようなもの)は成立し得ない。外部からの輪郭で出来上がっている、生きている間だけの仮初めのシルエット。それが私たち自己である。


ぱふぱふさんが拾ってくださったこの一節、
一見モラハラとは無関係ぽいのですが
その構造を突き詰めると
ここに行きつくんですよね、私は。


モラハラ関係の心理的解説や
特徴を解説や羅列したサイトなんかは
世の中に沢山ありますが

もう一歩踏み込めないのか?
と常々感じていまして。

なぜ、モラハラを「せざるを得ない」のか。
モラハラ関係を構築することによって
モラ夫が得るものの本質は何か。

他人の精神と繋がる訳がないのに。
オカルトじゃないんだから。

ところが、実際彼らはそれに成功している。
少なくとも、繋がろうと必死である。

そうすると

○精神が繋がる訳がない 

という前提自体が揺らいできます。

つまり「接続可能であるかも」
という帰結に行き当たる。

実例として、親子関係を挙げました。
個体として生きるための前段階として
接続期(愛着期)がある。
物理的な脳神経回路が育つのと
ソフトウエアが育つのには
相互作用が必要であって、
単独ではうまくいかない。
そもそも混じり合っていて
分けようがない物かもしれない。

そういった事が、実際の実験や
研究・思索にによって
段々分かって来ています。

接続と言っても、相互の考えが
全て筒抜けになる訳ではないので
ちょっと言葉足らずだとは思いますが、

何らかの障壁が壊されて
単独思考が出来なくなって行く状態は
やはり一方的な接続と言えると思います。
何しろ、実際の肉体にすら
激しい影響を与えますから。

もっと大きくいえば、
私達の肉体自体が
環境と物理的につながっていて
境目は判然としていません。

宇宙線や栄養、大気はしょっちゅう
出入りしています。
身体の構成材料である水分なんかは
ホントにどんどん出入りしていて

いつからが「私」で
どこから「ただの水」
なのかも分かりません。

でも、生きてる間は確かに
個体としてなんやかや動いて感じている。


宮沢賢治の「春と修羅」に

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)



という一節が
まさにこの事であろうと思われるのです。
私達とは、現象である。


そういえば、夢野久作のドグラ・マグラに

脳は身体全体の電話交換手に過ぎず
身体全体で精神を持ち
身体全体で考えているのだ。


という説を、誰かが一席打つ
シーンがありました。
説自体はかなり前からあったのかな? 
最近、それを証明する研究も
進んでいると聞きます。


生きてるうちから幽霊みたいで
なんだかワクワクしてきます。