良きドイツ人がヒトラーという悪魔の策略によって悪しき契約を結ばされて破局が生じたのだから、過去の悪しき契約ときっぱり手を切って、新たな良き契約のもとでドイツ人は社会的世界改革への道を目指そう、というわけである。


そこには坂口安吾のような「堕落論」もなければ、ドイツ人としてのアイデンティティのゆらぎもない。そこには戦前・戦中の日本人は悪い日本人、戦後の日本人は良い日本人、という「人格分裂」は生じない。


ただ、そのためには契約破棄後の後始末だけはしっかり行なっておかねばならない。それがヒトラーとナチスの犯罪の暴露と処罰と謝罪と補償であり、ヒトラーの国家社会主義との契約を破棄した後に新たに結んだアデナウアーの自由主義ないしウルブリヒトの共産主義との契約の順守である。


だからこそ、戦後の東西ドイツの指導者は絶対に「戦前からの」自由主義者ないし共産主義者でなければならなかったのである。ナチスに加担したものを排除することなしには契約を破棄したことにはならないからである。


契約を破棄した以上、ナチスに加担したものは徹底的に排除する。これは契約社会なら当然のことである。ここだけは自覚的に徹底しないと契約を破棄したと見なされないからである。だからこそ、戦後のドイツはナチス賛美は言論の自由の例外扱いにして犯罪として弾圧しているのである。