2022年に読んだ本
●川上桃子、呉介民 編『中国ファクターの政治社会学』中国資本は政治的な色彩を持っており、不透明な形で影響を及ぼしている。その見えにくい間接的な影響力行使の作用を「中国ファクター」として捉え、それがどのようなメカニズムでどのような分野にどのように影響をしているのか、そして、それに対して台湾側からどのような反作用が生じているのか、といったことを描き出す。「現地協力者」の概念は非常に有益で、中国ファクターがどのように作用するのかを理解するための鍵となると思われる。中国からの作用と台湾からの反作用が相互に学習しあいながら展開している(p24)という呉介民の指摘はなるほどと思ったが、こうしたイタチごっこは、台湾側にとって分が悪い戦いであるように思われ、自分としては台湾社会に対する危機感を強めた。中国からの台湾観光は中国政府が指定する旅行者の寡占状態が作られており、中国政府の意向を容易に反映できるようになっていることについての指摘(p43、第2章)や中国人による台湾への団体ツアーが中国の国内にいるのと同じであるかのような感覚を持たせるように作られていること、そこでの不透明な利益配分も台湾社会側でも中国との関係が近い人々が主に恩恵を受けているらしいこと(第3章)、台湾の媽祖信仰についての第4章は台湾側のアクターが中国側とつながることで宗教的序列を上昇させる際、廟の運営グループが現地協力者となって中国の「宗教を通じた統一戦線工作」に回収されていくこと、第5章では中国の資本が台湾に参入する際には経済的な利益がなければならず、中国政府の思惑だけに答えて動くことはしていないこと、台湾側の規制が働いているため中国企業は思うように動けていない面があることなどが指摘される(思うに、これも国民党が政権に就く度に緩和されてしまいそうで怖いが。)。第6章の教科書についての分析も興味深い。国民党による権威主義的統治の時代には中国ナショナリズムが制度的に支持を受けていたが、それが失われると台湾ナショナリズムが台頭し、台湾主体性意識史観が成立していったが、大中国史観からの挑戦が絶えず行われており、これら大中国史観の持ち主が現地協力者となって日本の「つくる会」のような形で教科書まで作り始めたという流れは興味深い。第7章の報道の自由に関する議論では報道の自由には「消極的自由(政府などからの自由)」と「積極的自由(適切な事実を知りうる)」があり、国民党の権威主義統治が終わったことにより消極的自由は増したが、それに代わってアメリカから新自由主義的な圧力が来たためメディアも自由化と民営化が進んだため、資本の力が報道の自由の障害となってきている。そこに中国が資本を介して台湾の報道の自由を奪う経路がある。積極的な報道の自由の概念を強調し、それを育てていくことが重要だという指摘は参考になった。●デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』ブルシット・ジョブというものがある、ということを示す問題提起の書。シット・ジョブ(意味はあるが処遇が悪い)とブルシット・ジョブ(収入や地位は高いが無意味/有害)とを区別した上で、ブルシット・ジョブと金融資本との関係を示唆する。●小笠原欣幸『台湾総統選挙』台湾の人々の自己認識にかかるイデオロギーとして「中国ナショナリズム(統一)」、「台湾ナショナリズム(独立)」に加え、総統選挙の始まりとともに李登輝の時代に「台湾アイデンティティ(現状維持)」が現れ、台湾アイデンティティが主流となっている。左右のナショナリズムでは主流派を形成できず、選挙では台湾アイデンティティの層を取り込んだ側が勝つ。台湾では各投票所で開票も行われ、結果も示されるため、投票所ごとの得票率がわかる。それに基づいた分析を行っているのが興味深かった。投票所ごとの得票率のばらつきがどの程度あるか(標準偏差の大きさ)によって選挙活動のあり様や、それがどのような結果に結びついたのかを分析する手法は独特で興味深い。ただ、投票所ごとの得票率がわからない日本などの選挙では応用が難しい。台湾の人々は「繁栄も自立も」を望んでいるが、「繁栄と自立のジレンマ」という現実がある。このため、成立した政権は早々に支持率が下がってしまうという問題があるとされる。これに関連して以下の2点を思った。①これは中国の介入を許す隙になる可能性がある。②このため、今後、中国の経済的な台頭によって一人当たりGDPや生活水準が同じ程度になった時、台湾側は統一を容認する方向に傾く可能性があるのではないか。●熊倉潤『新疆ウイグル自治区 中国共産党支配の70年』新疆の地は、中国の王朝の統治としては、漢代には現地の支配層に印を授けて朝廷に結びつけるという間接統治であり、唐代には漢化する前に唐が没落(p6)したため、文化的な影響は小さかった。9世紀ころまでにテュルク化がほぼ完成し、16世紀頃までにはイスラーム化が完了した。以後は宗教指導者ホージャたちなどにより支配され、18世紀半ばころに清朝の版図に入ったが、近代国家の概念が広まってきた時点でたまたま清朝が支配していたことが、ここが中国の領土とされる根拠になった。共産党の支配は概ね内地と新疆で同じように行われたが、新疆では異民族支配とそれへの反発という形での解釈が生まれてしまうため、多少の配慮がされた。新疆生産建設兵団という漢族の集団が屯田兵として送り込まれたことは、新疆が独立できなくなったことの一つの要因となったように思われる。中国共産党は新疆の独立を阻止するためのレッテルを多用してきた。「地方民族主義」→「分離主義」→「テロ」。こうした言説を用いた苛烈な弾圧の正当化は、一定程度の成功を収めてしまい、中国共産党にとっての成功体験となっていることが見て取れた。中国共産党の新疆対策では、民衆に不満があるとき、不平等(富)に原因があるとしようとしてきた。政治的な民主性がないことや民族差別などがあることが不満の原因とは認めてこなかった。政治腐敗への批判は権力闘争に利用できたので活用してきた。このことをかなり長きにわたって続けてきたことは、都合の悪い問題に向き合おうとしていない姿勢が一貫してきたものとして注目に値する。習近平時代には不平等を解消しても新疆のテロはなくならないとした点では認識としては正しい方向に少しだけ進んだが、それへの対応は現地の声を聴くのではなく、より徹底的な抑圧によって反対する機会を奪い、従えていくという方向になったものであり、現地の人にとってはより悪い対策と言えるかもしれない。西部大開発以後の部分では、開発主義と民主性の相性の悪さという他の本『香港と「中国化」』の指摘が正当であるという理解を深めた。資源を奪う、環境を破壊する(水資源等)を行い、抵抗を示されることに対しては抑圧を行っていく。開発と抑圧は矛盾せず、むしろ相性が良い。終章では新疆政策はジェノサイドというよりも、より進んだ別の形の人権侵害であることが示唆されており、参考になった。ジェノサイドでは定義上、民族を破壊することを目的としていることが必要になる。中国共産党は破壊というよりも教育により自分に都合の良い人間に改造しようとしており、それについてこなかったものは殺し、そうでないものは労働力として活用していくという方向性を示しており、目的が異なるとする。生き残った人々は死んでいないから問題がないということではなく、過酷な生を強いることになっているという指摘はなるほどという感じだった。●斉加尚代、毎日放送映像取材班『教育と愛国 誰が教室を窒息させるのか』道徳と歴史の教科書を巡る攻防を描く第1部と大阪で橋下徹などが行ってきた「改革」の問題点を描く第二部からなる。2006年の教育基本法改正、2014年の地方教育行政法の改正、これらによる教育委員会に対する首長の発言力・影響力を強めようとする動きを受けて、教科書選定に介入しようとする「保守派(反動勢力)」。こうした動きを受けて、公立学校は特に萎縮が進んでいるという(p.76)。安倍政権などで使われた「教育再生」という語は、保守派(反動勢力)にとっては、殺されてしまった戦前の教育を再生するという含意があるのではないか。大阪で維新の会が進めてきた「改革」は、新自由主義的なもの。排除の論理が様々に織り込まれている点が気になった。定員割れの府立高校を統廃合すること、ゼロ・トレランスは弱者の弾圧・排除につながるものであり、学力テストの平均点数を稼ぐために成績の悪い生徒や学習に障害がある生徒などを退学に追い込むこと。教師が命令違反を一定数繰り返すと解雇。結果として、大阪の教員にはなり手が減り、新人は学力の低い先生が増え、優秀な先生は退職したり県外に転出したりしている。前川喜平氏のインタビューは参考になった。安倍政権で行われた法律の改悪も、教育内容の決定権は教育委員会に残すようにしたというあたりはなるほどと思わされた。しかし、首長が勝手に拡大解釈して自分に決定権があるのだと言う主張がまかり通っていく危険性はある。教育内容は教育員会に決定権があるという事実は広く知らせていく必要がある。終章などで語られている「教育とメディアの類似性」に関しても参考になる。権力側からしてみると、いずれも暴走を止める大きな力を持っている。教師や教科書はメディアでもある。権力者がメディアと教育に介入しようとするのは同根。●川喜田敦子『ドイツの歴史教育』第二次大戦後の主に西ドイツの歴史教育の変遷とその社会的な背景なども絡めて分析される。ドイツの歴史教育では、ナチの時代にかなりの時間数を割いている。50年代はその時代を生きていた人々が多かったこともあってか記述は多くなかった。59年末から60年初めに起きたユダヤ人墓地あらしの事件がきっかけとなって若年層の歴史的知識の少なさが問題視され、記述が増えていった。ドイツでは、ナチの過去について教えることは、現代において排外主義や人種差別などが広がらないようにすることをも意図されている点は、日本も見習うべき姿勢だと言える(共通善)。次第にナチに関する叙述は改善されていくが、80年代には地域史・日常史の視点から身近な歴史として教えるようになり(p60)、普通のドイツ人の責任を問う方向へ進む。(この変化は歴史学一般における社会史の台頭と対応するものでもあるが、教科書にすぐに反映していく反応の速さは、日本ではちょっと考えられないくらいであるように思われる。ドイツとイスラエル(ユダヤ)、ポーランドとの間の歴史教科書会議が続けられた点も見習うべきところ。ユダヤ人に関しては、迫害の歴史として描かれてきていたものを共生の歴史として描きなおされた(p73)。第一次大戦後のヴェルサイユ講和条約で、ドイツは東欧の領土を失った。ドイツ国内ではこれに対し国境線の修正を求める動きが出てきた。それに呼応した「東方研究」が行われ、「東欧は歴史的にドイツの土地であった」などと主張された。このあり様は、ロシアのプーチンがウクライナに侵攻した際のプーチンの歪んだ歴史認識と共通するものである。中国の南シナ海などに関する認識とも通じるかもしれない。ホロコーストなどに関しては、ユダヤ人だけでなく、それ以外にも多くの人びと(同性愛者、シンティ・ロマなど)が被害にあったことが指摘されるようになり、教科書にも次第に取り上げられるようになっていった。ナチの暴力支配を社会的少数者の排斥として広くとらえる視点が出てきた(p115)。ナチの過去を教えることは人権教育になる可能性を持っている(これは実際には十分なものではないが)。日本が近隣諸国とどのような関係を持っていくかを考えるにあたっても非常に参考になる本である。●鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』新自由主義的な教育改革の弊害を描く。新自由主義国家では財政の縮小だけでなく政府への権力集中が起こる。教育では教育委員会を廃止し、首長の管理下に置くこと、市場原理の導入による民主的プロセスの排除が行われる。教育産業は政治へのロビー活動を行いつつ、天下りルートを確立することで懐柔していく。政治家に利益を与えて動かす。自社に都合のよい政策への誘導を行う(オバマ政権での「頂点への競争資金」や試験の多用など)。これにより得た莫大な利益でロビー活動や天下り先を用意するというループが形成される。新自由主義という語は経済的な自由を追求するかのようなイメージを喚起するが、私見では真の問題は民主的な決定プロセスを破壊することにある。不平等の拡大もそのための手段でしかなく、権力をもつ者がより力を持つためのものであることをはっきり示す語の方が適切であるように思われる。数値化や標準化の問題点、アカウンタビリティという新自由主義的な責任の観念の問題点、ゼロトレランスと新自由主義の相性の良さ(支配者に都合の悪いものを排除しやすい)などが指摘され、いずれも妥当な批判。新自由主義的な思考を内面化してしまう(フーコー的権力観)ため、公教育を「公衆の教育」(p131)と捉えなおすべきという点は参考になる。最後に述べられる問いの重要性と「明快でシンプルで間違った答え」、答えしか提供しない社会には自由はないという指摘なども鋭い。