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古代史という硬いテーマのお話なので、まず出だしは柔らかい後宮の話から。


白楽天の長恨歌に後宮三千人と歌われていますが、史上もっとも多くの美女を後宮に集めたのは西晋の司馬炎です。西晋は日本人にも馴染みが深い。三国志の時代の直後のことです。


この司馬炎。なんと1万人もの美女を集めて酒色に耽った。西晋王朝が短命だった理由のひ とつに挙げられています。

日本の花柳界や飲食業界で行われている盛り塩の風習。これは司馬炎の故事に由 来する。以下はウィキペディアの「司馬炎」から:

司馬炎は、女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月 には、詔勅をもって、女子の婚姻を一旦禁止し、その中から、自分の後宮に入れ るための女子を五千人選んだ。さらに、呉を滅ぼした後の太康2年(281年)3月 には、呉の皇帝であった孫皓の後宮の女性五千人を自らの後宮に入れた。一万人 もの宮女を収容した広大な宮殿を司馬炎は夜な夜な羊に引かせた車に乗って回っ た。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。 そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿 しておき、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるから である。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようにな った起源とも言われている。なお、一万人の女性といっても、后などを世話する 女官などの数も入っているため、実際に司馬炎が一万人の女性を相手にしたとい うわけではない。

この司馬炎。三国志演義で蜀の諸葛孔明の好敵手だった司馬 忠達の孫にあたります。上の文中の統一以前というのは、蜀が魏に、呉が西晋に降る前と いうことです。

同じく文中に西暦273年という数字がありますが、卑弥呼が使者を魏に遣わした のは景初3年。西暦239年です。実はこの年、魏では大変なことが起こっていた。

つづく]