思考回路の露呈先

思考回路の露呈先

ただの独り言の場所。人からの反応を意識すると吐きたいことが吐けなくなって何のための場所かわからなくなるのでコメントは受付しておりません。

ここに書き連ねる言葉は「誰かに聞いてほしいけれど躊躇なく話すには抵抗のあること」です。

相手が親しい人間であればあるほど話すのが怖いと感じること。

要は醜すぎて目も当てられないぐちゃぐちゃな脳内の惨状です。

頭に浮かんだ言葉を何の遠慮も体裁もなく書き殴るだけの場所。

気色が悪いと感じる人がほとんどになることでしょう。

中の人を知る人間であれば、酷く傷つく羽目になるかもしれません。

それでも私は吐き場所が欲しかった。

自分の脳内で繰り返される懺悔と自問自答を、誰にも邪魔されず吐ける場所が。

それでいて、そんな思考をしている人間がいるのだなとほんの少しだけでも知ってもらえる場所が。

自分がどんな人間であるのかを、見つめなおせる場所が。


気味が悪いと感じたのなら即座にこのページから立ち去ってください。
無理をして読む必要はありません。

読んでいて何か辛いと感じたのなら即座にこのページから立ち去ってください。
傷ついてまで私の脳や心を知る必要はありません。

不快ゆえにどうあっても叩き潰したいと感じたのならご自由になさってください。


それでは、はじめまして。
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「自分を異常だと認識できているなら貴方は異常ではない」。

 

その言葉は、自分と他者との明らかな差異を自覚し苦しんでいる人に向けて、その気持ちを救うために発せられていることが多い。

少なくとも私が今までその言葉を、もしくはそれに類する言葉を聞いた時、その言葉を発した人から明確な悪意や害意を受け取ったことはない。寧ろそういった負の感情を感じる時に発せられるのは「あいつはおかしい」「非常識だ」「普通はそんなことをしないだろう」など、相手を異常、異端だとして罵るような言葉のほうが多い。

この記事を読んでいる人の中にも、もしかするとそのようなことを言われたことがある人がいるのではないだろうか。あるいは、自分がそのような言葉を発したことがある人がいるのではないだろうか。

 

異常、という言葉について私がよく考えることがある。

 

一つは、冒頭に述べた言葉そのものについて。

この言葉を発する人の理論として、「自分のことをおかしいと理解できるのなら、正常な視点を持っているということだ」「本当に異常な人間は自分が異常であることすら認識できない」という言葉も聞いたことがある。確かに筋は通っているだろう。

ただ、私は納得がいかない。

「自分は人と比べて何かがおかしい」と思う人がいたとする。その人が客観的に自分を見て、自分がどうおかしいのかを本当に理解することができているのなら「正常な視点」を持っていると言えるだろう。しかし、そうやって「自分はおかしいのだ」と発言するということはその「おかしな点」を修正できていないということだ。異常であるといくら理解できていたとしても、異常である点を修正することができていないのならその人は異常であるのではないのだろうか。

或いは、自分のどこがおかしいのか見当も付けられない人であっても、先述したような「お前は普通じゃない」というような言葉を何度も何度も投げかけられたなら、自分の価値観や思考が正常だと確固たる自信を持っていられるような自信に満ちた人間でもなければ「自分は何かおかしいのではないか」と不安を抱くのではないだろうか。その不安から自分の異常に気付く可能性も十二分にありえる。それとも、正真正銘の異常者になるのは妄信的に自分だけを信じているような人間だけだとでもいうのか。そんな根拠は一体どこから示すことができるのだろう。

 

自分の「異常」に悩む人間から「異常」として示される物事が、ほんの些細な事であるから「そうやって自覚できているなら異常じゃない」などと易々と発言できるのではないのだろうか。もしもそのおかしな点が「殺人衝動」などであったなら?「人を殺すのはおかしいとわかっているけれどどうしてもやめることができない」と目の前の人間に言われたなら、「自覚できているなら大丈夫」理論の持ち主たちはどう答えるのだろう。それでもなお「自覚があるならあなたは正常だ」というのだろうか。そのまま刺殺されたとしても。

 

実際、私が自分の「ADHD」という病気・・・・・・つまり人とは違う「異常」に気付いたきっかけも他者から散々「なんでこんな誰でもできるような簡単なことができないのか」という言葉で頻繁に怒られ続けたことだった。その言葉に落ち込み、「自分は何かおかしいのだろうか」と疑問を抱いた時、投げかけられる言葉がまさに「あなたはおかしくない」「おかしいんじゃないかと疑問を抱けるなら大丈夫」というような言葉だった。

心療内科を受診したこともあった。「自覚があるなら大丈夫」のような言葉こそなかったが、「誰でもそういううまくいかない時期はある」と、特に診断も投薬もなく帰された。

長い間自分は正常だと信じていた。自分の味わっている苦しみも悲しみもうまくできない辛さも、誰もが味わっているものだと信じていた。努力で治せるものを自分の努力不足で直せていないだけなのだと信じていた。

それが、自分の異常の一端に気づいて調べた日に全て覆された。目にした「ADHD」という病名、その症状にほぼ合致していた。それを専門的に調べられる病院を調べて受診し、そして診断が下った。

投薬が始まり、日常生活や仕事でどのように自分の症状に対処すればいいかアドバイスをもらった。

私は自分の「異常」を一つ知り、そして理解を得ることができ、少し救われた。

 

そこで、今度は次の疑問。

どうして「あなたは異常じゃない」という言葉が救いになると思っているのだろう。

人は一人ひとり違うもの、十人十色だと人は言う。誰にでも少しはおかしな部分がある物だと。

だったらどうして人は他人の「異常」を否定するのか。「異常であること」を否定することで人を救おうとするのか。

「自分は正常だ」と思わせることがどうして救いになると信じているのだろう。

自分の経験則にしか過ぎないが、私は思う。

異常者を救おうと思うなら、その異常を理解したうえで適した対処・対応をしてやるべきなのでは?

異常、おかしい、というから聞こえが悪いのだが、それはいいかえれば特徴である。

異常者といえばよく聞く単語が「サイコパス」だと思うが、聞けばサイコパスは状況把握能力や人を動かす能力に長けているのだとか。

短所は長所になり得る。あるいは短所の数だけ長所がある。

何故人の特徴を否定するのか。それは人格否定といっても過言ではないのではないか?

あるがままを受け入れ、思考しろ。

存分に異常であれ。そして己の、あるいは他者の異常に対処し対応しろ。

 

では、もしも、その目の前の異常者の訴える異常が「殺人衝動」などの危険極まりないものであり、その異常を自制できないというのならどうするべきなのだろう。

まぁその時は、死ぬか殺すか、しかないのではないか。

罪を犯さない限り、「自分は誰かを殺してしまうかもしれない!」という訴えは社会において何の意味もなさないのだから。ただ「痛い人だな」程度に思われてお終いなのだから。

自分の苦しみは自分にしか理解されないものだ。

もし自分が直接手を下さなかったとしても、その殺人犯を警察に突き出すのはその人を社会的に殺すのと同義だ。その人だけではない。その人の身内も皆社会から白い目で見られることになる。が、かといって自分がその殺人犯を殺したりすれば次に苦しむのは自分とその身内だ。優先すべきが何なのか、しっかりと考えておくことは大事だと思う。

 

・・・・・・とはいえ、私にこの思想を他者に押し付けるような権利も義務もないのだけれど。

私が受け入れるべきなのはこんな受け入れがたい現実が蔓延るこの世の中そのものなのかもしれない。

 

 

本当に考えたことを適当に書いただけなので支離滅裂な文章かもしれない。

しかし人の思考なんてそんなものではないでしょうか。

そろそろ面倒になってきたので今日の独り言はここまでです。

それでは今日もおやすみなさい。