シーナ&ロケッツのギタリスト「鮎川誠」氏が亡くなった。
十代の頃から見聞きしていたアーティストが虹の橋を渡るのを見送ることが多くなった。
黒のレスポールギターを弾きまくる姿とコテコテの博多弁(久留米弁?)のギャップが愛くるしく格好良かった。
私も終活の文字が頭をよぎるようになった。
この世にかき集め忘れた金はないか?
過去に無心することにした。
移住してから車中でラジオを聴くようになり
ラジオCMで頻繁に「過払い金返還請求」が流れ頭にすり込まれた。
どうせキャッシングしてから、十年以上経っているしなぁ、と聞き流していたが
お電話だけでも、というキャッチに惹かれ電話をした。
今治で会場を借りて司法書士が直接面談するという。
今治に行くタイミングで面談して調査依頼した。
二ヶ月ほど経ちショートメッセージがいくつかスマホに届くようになった。
「1997年に完済しており過払い金返還請求の期限を過ぎております」
「貴方が借入れしていた○○ファイナンスは当時より法定金利内での
貸し付けの為、返還できる過払い金はありません」
二十五歳でキャッシングして生活が安定する三十歳まで
街金融にはお世話になったが、それ以降は堅実に過ごしてきた
ので街金にはお金を借りていない。
※二十五歳から5年間は分不相応な生活だった。
過払い金返還請求のCMも移住してからラジオで聴くように
なったので移住した2008年辺りではもう期限が過ぎていた。
成果ゼロだがお世話になった司法書士の方々には感謝したい。
父は2005年にアスベストが原因とされる中皮腫で亡くなった。
その後、環境省でアスベスト救済措置が発布施行された。
当時、労災を認められないアスベスト被害者の救済で父の遺族死亡見舞金を
私も受け取ることができた(父の借金で一部消えたが)
昨年、建設アスベスト被害訴訟で過去に
「環境省の救済措置」を受けた遺族の方も再び相談を!
という新聞広告を見て父の再調査を弁護士事務所に相談した。
結果としてやはりアスベストが起因となる病気、中皮腫で死亡したのは間違いないし
建設業を営んでいたのは確かだが
どの親受け会社からの依頼で、いつ頃、どの現場で何の建材を使用したのかを
証言してくれる人間や作業日誌などがないと、申請は難しいとの
答えが弁護士事務所よりあった。
それらがあったなら父の労災だって、当時認められたはずだが
ないから環境省のアスベスト救済措置に頼るしか無かったのだ。
発症から三ヶ月半で亡くなったので、当時相談したアスベストセンターの
方の聞き取りも体調が悪く思うように
できなかった。
成果ゼロだがお世話になった弁護士事務所の方々には感謝したい。
シーナ&ロケッツの話を。
高校一年生だったある日。
同じクラスで強面の不良N君が私に声をかけた。
その地域の番長との触れ込みだが、なぜか私とウマが合った。
バンドをやっている私がその手の話には詳しいと目星をつけたのだろう。
いつものように砕けた口調で
「おい。シーナってめちゃくちゃ良い女だよな」
私に同意を求めた。続けて
「でもよぉ。シーナと鮎川誠って絶対、イッパツやってるよな」
舌打ちをした。
イッパツが何を現しているのか、説明するのは品位品格を大切にしている当ブログゆえに察して頂きたい。
「あの二人って夫婦だよ」
相手をおもんばかる配慮って奴が昔から足りない私は即答し
「たしか子供もいたよな」
畳みかけた。
強面とは言え数ヶ月前は中学生だったのだ。
素敵な女性とときめいた相手が既婚者で、しかも子供さんもいた現実を
処理できない複雑な表情を浮かべN君は
「まじかよ……」
と言ったきり黙りこみ宙を仰いだ。
まもなく、N君は吉原デビューすることになったのだが
大人びた風貌からか、未成年と疑われたことは一度もないと言い切った。
シーナと鮎川誠が夫婦だった事実を知り慟哭した彼はもういなかった。
そこにいたのは過去を振り捨て、今を生きる自信に満ちた男の横顔だった。
N君が大人の階段をかけ上がったきっかけが、あの日の会話なら私としても感慨深い。
代表曲「ユーメイドリーム」
これが私の素敵な夢~というサビで有名だが
私の夢はあまりに矮小陳腐で独りよがりだ。
♪徒歩圏内に病院があってスーパーがあって本屋があって
ホームセンターや金融機関もスポーツジムもあって、居酒屋もあって多国籍料理屋もあって、
映画館やイベント会場にも電車で行けて、ドコモショップも近くにあって、豪雨があったら崩れそうな裏山の心配もない、
そんな所へ住んでみるのが
私の夢~。
醒めた声で妻はこう言うだろう。
「池袋へ帰れば」