「浪士姓名簿」(鵜殿鳩翁:東京大学法学部研究室図書室所蔵)における山南敬助(亥二十六)

文久三年(亥年(いどし:干支でイノシシ):西暦1863年)に26歳ということから逆算して山南は天保8年(酉年(とりどし):西暦1837年)ということが判明しております。

近藤勇(1834年)より3歳年下、土方歳三(1835年)より2歳年下、沖田総司(1840年)より3歳年長ということが分かります。

近藤、土方より年上のイメージがあったので今更驚いています。

沖田ともあまり年が違わないので本当にお兄ちゃん的な存在だったのかも知れません。

山南の死をついでにちょっと報せた沖田の手紙に「山南兄」とあったのも今までは年上の山南さんという意味合いで私は捉えていましたが、お兄ちゃん的要素がもっと含まれているのかも知れません。


 こちらは「東西紀聞」(小寺玉晁 編『東西紀聞』第一,日本史籍協会,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1917663 (参照 2024-06-17))0095.jp2です。

伝通院前金⬛︎水反町 鈴木半平なる人物による亥二月八日(内容から文久三年と思慮)の浪士姓名覚という件名の記事です。

浪士組として伝通院に参集した浪士たちのことが記されているのですが、面白いのは次のページ


 浪士組各組の名簿が出て来ますが、「〇印之分達人之趣ニ御座候」と書かれています。

芹澤鴨に〇印がっ!!

山南敬助は?沖田総司は?果たして〇が付いているのか?


 「〇沖田総司  〇山本敢助」

この山本敢助は「山南敬助」の誤りだと思われます(活字にした時の誤植かと)。

いやったーーーーっ!!山南さんに〇付いてた!

しかし、土方、藤堂、永倉には付いていない。はて?林太郎兄さんには付いてるなあ。


 次のページ

な、なな、なんと!近藤先生に〇が付いていない!

これはどういう選考基準なんだ?

鈴木半平さんの主観なんだろうけど…


※  〇がなくても実際の強弱なんてスカウターでもない限り分かりませんので好きな隊士に付いてなくても気にしないでくださいね。