『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む

तत्पुरुषाय विद्महे महादेवाय धीमहि ।
तन्नो रुद्रः प्रचोदयात् ॥


tatpuruSaayavidmahe । mahaadevaaya dhiimamahi ।
tanno rudraH pracodayaat ॥


タットプルシャ(かのプルシャ)を覚知して、願わくはマハーデーヴァ(偉大なる神)へと決定せん。
我等をかのルドラ神が鼓舞せんことを。






अत्रेदं ब्रह्म जपेत् ॥२१॥
 
 

atredaM brahma japet ॥21॥
 
 
【ここにおいて、このブラフマンを唱えるべし。】  
 
 


 まず四胡(ギリシア人、サカ人、パルティア人、クシャーナ族)を見ていく上で、すぐさまカタカナの洪水の如き、その歴史に進む前に、中国の漢文資料を通した視点を確保しておくのが望ましい。というのも中国の西域史にこれらの民族が姿を表すからだ。有名な張蹇(~前114年)は、漢の武帝により、匈奴を挟撃するために、大月氏(その支族がクシャーナ族)の下へ使者として派遣され、その記録が司馬遷(前145~前87頃)の『史記』において『大宛(フェルガナ)列伝』、また班固(32~92)の『漢書』の『西域伝』などに残されている。 


大月氏(その支族がクシャーナ族)は、大宛(フェルガナ)の西に在りて、二三千里なるべし。媯水(アムダリヤ川)の北に居る。その南はすなわち大夏(バクトリア)、西はすなわち安息(パルティア)、北はすなわち康居。
 
 
 このように『史記』には、四胡のうちサカ(塞)族を除き、ギリシア人のバクトリア(大夏)、ペルシア人の安息(パルティア)、後のクシャーナ族の母体である大月氏が登場している。北の康居は、康国(サマルカンド)を支配していた遊牧民であり、今回の記事における重要人物である、『六度集経』の翻訳者である三国志時代の呉の僧、康僧会の先祖が、この康居人であったと言われているので特記しておく。張蹇は、匈奴の捕虜になりながらも、大夏(バクトリア)にまで行き着いた。『漢書』によれば、
 

昔、匈奴は大月氏を破り、大月氏は西して、大夏(トハラ=バクトリア)に君し、而して塞王(サカ族の王)は南して、罽賓(ガンダーラ) に君す。塞(サカ)種は分散し、往々にして数国を為す。疏勒(カシュガル)より西北を以ってす。九循、悁毒の属は、皆、故塞の種なり。  
 
 
 匈奴によって大月氏は西に追いやられ、西に追いやられた大月氏が大夏(トハラ=バクトリア)を占領し、さらに大月氏に圧迫されたサカ人が、ガンダーラ方面へとヒンドゥクシュ山脈を超えて南下したことが述べられている。ここから、
 
 
 匈奴>大月氏>サカ(塞)人>大夏>インド人という当時の軍事力の強弱関係が垣間見える。インド人の歴史を見ても、彼らが侵略されることはあっても外に侵略の為に打って出ることはなく、常に外部からの侵略に悩まされていたのは歴史の証するところであるから、現代において世界第三位の軍事費を誇るインド人が戦争においては、再弱の部類であることがここから分かる。ご存知のようにインドは文化の国であっても尚武の国ではない。筆者もインドを旅して柄の悪いインド人に結構、色々な目に合わされそうになったが、こっちが武術家魂を多少発揮して、その20倍くらいガラ悪く、いきなり指で目ん玉問答無用にくり抜くぞレベルでガチギレ演技してみせるとすぐゴメンなさいをしてくるので、基本スペックとして奴らが惰弱なのは間違いない。話が脱線したが、この班固の記述の当時、すでにギリシア人のバクトリアは、相当弱体化した後だと考えられるので、ここでの大夏は、ギリシア人の支配がほぼほぼ終焉を迎えていた時代のバクトリアに住む原住民の強さと考えた方がよいだろう。ここからインドへの四胡侵入の遠因は、ギリシア人の侵入を除けば、匈奴の膨張にあったということが分かる。ここで地理的に重要なヒンドゥークシュ山脈の位置を確認しておきたい。ヒンドゥークシュ山脈を挟んで北西が、バクトリアであり、南東がガンダーラ地方である。一般的にヒンドゥークシュ山脈を越えたところからインド圏となる。ヒンドゥークシュ山脈を越えたところに、カーピシー、ジャララバード、ペシャーワル、ガンダーラ、タキシラーなどの都市がある。現代で言うとアフガーニスターンとパキスターンの北部にヒンドゥークシュ山脈が横たわり、その北はタジキスターンとなる。



 
 
 【ギリシア人(グレコ・バクトリア朝・インド・グリーク朝)】
 

 
 インド遠征を行ったアレクサンドロス3世沒後、後継者争いの中でシリアからバクトリア(ヒンドゥークシュ山脈の西)までの広大な支配領域を有したのがセレウコス朝(前312~前63)であった。




    そしてセレウコス朝のパルティア(安息)総督のアンドラゴラスとバクトリア(大夏)総督であったディオドトスⅠ世が、セレウコス朝に叛旗を翻したのが前250年頃であった。当時、インドはマウリヤ朝の最盛期アショーカ王の時代であった。間もなくアンドラゴラスはアルサケスに殺害され、ここにイランは、400年続くアルサケス朝が築かれる。一方、バクトリアでは、ギリシア人のディオドトスⅠ世とその息子のディオドトスⅡ世と二代の王統が続いたが、ディオドトスⅠ世とセレウコス朝のセレウコスⅡ世の娘である王妃の間に生まれた娘を妻とする婿でサトラップ(大守)のエウティデーモス(在位前235~前200頃)がディオドトスⅡ世を殺して、次の王位に着く。
 そしてこのエウティデーモスの息子こそが前回の記事でパータリプトラ進攻を行ったデーメートリオスⅠ世であった。エウティデーモスは、セレウコス朝のアンティオコスⅢ世の進攻によく耐え、バクトリアの独立を守ったが、その死後には、デーメートリオスⅠ世がバクトリアを、弟のエウティデーモスⅡ世が北方のソグディアナを継承したようである。デーメートリオスⅠ世は、ヒンドクークシュ山脈を越えて、現代のガブール、ペシャーワルなどのパロパミサダエ地方に進攻し、その後、カンダハールの位置するアランコシア地域やヘラートの位置するドランギアナ地方にも進出したと考えられる。ちなみにヒンドゥークシュ山脈の西側のギリシア人の国が、グレコ・バクトリア国であり、ヒンドクークシュの東がインド・グリーク朝ということになるが、これは地域による便宜的な区分けでしかない。かくて膨張政策を取るデーメートリウスⅠ世は、パータリプトラ進攻の後、なんらかの理由で、バクトリアに戻り、その後すぐに亡くなったと見られる。その最大の後継者が、ヒンドゥークシュ山脈より東を支配するデーメートリオスⅡ世であった。一方、エウティデーモスⅡ世の後に、その弟とも言われるアンティマコスがソグディアナ地方を継承し、後にバクトリアを兼ねて支配したようである。またデーメートリオスⅡ世にはさらに兄弟が二人いて、アラコシアを領有するアガトクレス(前180~前160)、ドランギアナ地方を領有するパンタレオン(前185~前175)の貨幣が残っている。こうした兄弟・従兄弟が王として並び立つ状況の中、貴族であったエウクラティデスが、バクトリアで反乱を起こす。これと対決したのが6万の大軍を率いるデーメートリオスⅡ世であった。劣勢のエウクラティデスは、パルティアのミスラダテスⅠ世に救援を求め、最終的にデーメートリオスⅡ世に勝利し、バクトリアの覇権を握ることになる。その後、エウクラティデスは、ヒンドゥークシュを越えて、カピサ(カービシャー)を占領したが、デーメートリオスの部下であったメナンドロスがインドで勢力を有していたので、インドに大きく領土を拡げることはできなかったようである。そしてエウクラティデスの快進撃は、息子のヘリオクレスの裏切りによって前155年頃に呆気なく終焉を迎え、彼は息子の手にかかり殺される。こうして前155年頃にヘリオクレスがバクトリアを支配する。しかしその頃から冒頭で紹介した大月氏に圧迫されたサカ人の第一波がまず押し寄せ、そしてついで大月氏の第二波が到来し、戦乱で疲弊したバクトリア(大夏)は、最終的に大月氏に従属することとなる。大乗仏教起源史の研究において、デーメートリオスとメナンドロスの二人のギリシア人王とヴィディシャーにヘリオドロスを大使として送ったエクラティデスⅠ世の系統であるアンティアルキダスの三人ぐらいを抑えておけば十分だと考えられるが、ついでなので、誰も興味はないだろうが、筆者の個人的な勉強のために、以下にエウクラティデスⅠ世以降の群小ギリシア人王についても、ある程度ここでまとめておく。ほとんど前田耕作の『バクトリア王国の興亡』からのまとめである。系統として、メナンドロス系、メナンドロスの弟のアンティマコス系統、アウテュデーモス・デーメートリオス系統、エウクラティデスⅠ世系統、その他に分類できる。読者には読み飛ばしをお勧めする。
 
 
メナンドロス系統(硬貨にはパラス・アテネ女神かアポロン神を使用)
 

 
 
ストラトンⅠ世(前120~前110) 北アラコシアのガズニー地域を支配。メナンドロスの息子とされるが、最近の説ではアガトクレイアの息子で、より後代の王とされる。
 
アポッロドトスⅡ世(前80~前65) タキシラー、ガンダーラ、カーブル流域、ガズニー地域など広範囲の覇権を握った。

ディオニュシオス(前65~55) 東パンジャーブのジェラム河流域

ゾイロスⅡ世(前55~前35) ジェラム河流域

アポロパネス(前35~前25) ジェラム河流域

ストラトンⅡ世(前25~10) ジェラム河流域
 
 
メナンドロスの弟のアンティマコス系統(硬貨には跳ね馬に乗る王の図柄)
 
 
アンティマコスⅡ世(前174~前165)メナンドロスの兄弟とも言われる。 北アラコシアのガズニー地域、ガンダーラ地域、スワート地域を支配。
 
フィロクセノス(前100~前95) 北アラコシア、ガンダーラ、スワート、タキシラー地域を支配。
 
ニキアス(前95~前85) ガンダーラ地域を支配

ヒッポストラトス(前65~前55) タキシラー地域 ガンダーラに至り、スキタイ=サカ属のアゼズⅠ世によって亡ぼされる。
 
 
エウテュデーモス・デーメートリオス系統(ヘラクレス)
 
 
ゾイロスⅠ世(前130~前120) 北アラコシアを支配。
 
リュシアス(前130~前120) パロパミサダエのカーブル河流域、北アラコシア・ガズニー地域
 
テオピロス ガンダーラとヒンドゥークシュの北方
 
 
エウクラティデスⅠ世系統(アポロン神)
 
 
エウクラティデスⅡ世 ヘリオクレスⅠ世の後継者、ヒンドゥークシュ山脈の北方のバダクシャン地区。
 
 
アルケビオス 前129年~前128年の彼の時代に張蹇が大夏に滞在した。カーブル河流域と北アラコシアに転進したと考えられる。
 
 
ヘリオクレスⅡ世 カーブル河流域。ストラトンと抗争する。
 
アンティアルキダス(前115~前95) ヒンドゥークシュ山脈の北方のバダクシャン地区、カーブル河流域、北アラコシアのガズニー河流域、ガンダーラ地方など。アポロッドトスにタキシラーで破れるが、ヴィディシャーにヘリオドロスを大使として派遣する。
 
 
ディオメデス(前95~前90) パロパミサダエやヒンドゥークシュ北方を再占領した可能性がある。
 
テレポス タキシラーを占領。
 
アミュンタス(前95~前90) アンティアルキダスの後継者。北方のバダクシャン地区、カーブル河流域、ガンダーラ地方などを領有。
 
ヘルマイオス(前90~前70) パロパミサダエを支配するインド・グリーク朝最後の王。北方のバダクシャン地区、カーブル河流域、ガンダーラ地方などを領有。サカ=パフラヴァの王ウォノネスと衝突。スキタイ=サカ族に最終的に亡ぼされる。



(ヘルマイオスのコイン、ゼウスが刻印されている)
 
 
その他の系統(アルテミス女神)。
 
アルテミドロス・アニケトス ガンダーラ、プシュカラヴァティを支配。 一説にはスキタイ=サカの王マウエスの息子という説もあるが、それを否定する説も近年挙がっている。


(アルテミドロスのコイン、女神アルテミスが刻印されている)
 
ペウコラオス ガンダーラを支配。



【スキタイ=サカ(塞)族】
 
 
 ギリシア人やクシャーナ族に比べると陰に隠れがちなスキタイ=サカ(塞)族であるが、ガンダーラ美術やマトゥラー美術における仏像の起源を考える上で最重要参考人とも目されるのがこのスキタイ=サカ(塞)族である。大乗仏教起源史の次回の最後の回で余裕があれば、この点も論じたいとは思う。サカ族は最終的に前々回の記事で論じた西クシャトラパ王国やマトゥラーの北クシャトラパ王国を建国したという点を鑑みれば、紀元後数世紀の北西インドを理解する鍵と言ってもいいだろう。クシャーナ朝という大帝国を理解するだけで、北西インドの紀元後数世紀の歴史を理解したことにはならないのである。クシャーナ族の支配の下で、総督として存続したサカ族のクシャトラパが多数いて、そのさらに下位に前回の記事で確認した群小部族国家が割拠していたのが、北西インドの紀元後数世紀の状況であり、かかる重層構造が理解されて初めて、当時の北インドを立体的に理解することができる。筆者のブログにおいては、細かい部分や詳細に欠ける部分、不正確な部分も多々あるだろうが、筆者がこのブログの読者に少なくとも理解してもらいたいのが、かかる問題圏の所在の理解である。筆者のブログに不足や誤りを見つけた場合は、読者が後は自らその問題圏の穴埋めや整理を行っていただければ、それでよい。しかし「北クシャトラパ王国、アウドゥムバラ族、何ですかそれ、聞いたこともないです」という風にならなければ、筆者がブログを書く甲斐があったというものである。希望を言えば、ここから未来の学者でも育ってくれればそれでよいのだが、惜しむらくはアメーバブログは中年以上しかいないということである。 
 スキタイ=サカ族がインド史の地平線上に現れるのは、前141年の冬にサカ族がパルティア(安息)の東の境に姿を現し、パルティアの六代ミスラダテスⅠ世(前171~前138)にその西進を阻まれたものの、フラーテスⅡ世(前138~前128)、 アルタバヌスⅡ(前128~前123)を打ち破った辺りからである。南進したサカ族は、ゾロアスター教の聖地ヘルマンド湖に10年ほど定住し、そこをサカステーネ(サカ人の土地)と名付け、サカ・パハルヴァ(サカ・パルティア)として力を蓄える。
 インド・スキタイ朝の最初の王は、マウエス(前120~前85)である。彼は漢書で言うところの懸度(ヒンドゥークシュ)を越えて、ガンダーラを中心にインド北部の覇権を握った。彼がサカ=パハルヴァのサカ族であるかは不明である(漢書ではサカ族の分散が語られている)。古銭学者のR.C.シニアによれば、彼は三つの主要な州で銀貨を発行した。
 

①東の州は、ハザラ東部、カシミール。
②中央のガンダーラの首都タキシラーを中心のハザラ西部
③タキシラーよりさらに北西部。
 
 マウエス以降、サカ族とギリシア人の間で婚姻や同盟がなされた可能性が高い。ギリシア人王アルテミドロスは、一説によれば、マウエスの息子とされるが、最近の説では、サカ族の王マウエスに従属した単なるギリシア人王であるという説が唱えられている。マウエスは、王の中の王(ラージャーティラージャ)を名乗った。マウエスの晩年に、スキタイ=サカ族の別のグループが、ヒンドクークシュ北部のギリシア人の支配者であるヘリオクレスⅠ世をヒンドゥークシュ山脈以南に追いやった。ヘリオクレスⅠ世(前135~100)と息子のヘリオスレスⅡ世(前100~前85)は、マウエスの存命中にストラトⅠ世やヘルマイオスから領土を奪った。ヒンドゥークシュ山脈北部のサカ族は、大月氏に追われたのか、或いはヘリオクレスⅡ世を追って南化した(年代的にはこの時代のスキタイ・サカの第二グループの南化が、漢書の塞族の南化を示している可能性もある)。この第二グループの指導者としてヴォノネス(前85~前65)、兄弟のスパラホレス、甥のスパラガダメス、部下のスパリリセスがいた。この時代はギリシア人王としては、アポロドトスⅡ世(前80~前65)の時代であり、彼が広範囲な覇権を確立したことが知られていて、アポロッドトスとサカ族が共同で発行した硬貨が知られている。紀元前58年頃にスキタイ=サカ族のアゼズ(前50~前30)がヴォノネス家の唯一の相続人として覇権を握る。アゼスⅠ世は、ガンダーラのプシュカラヴァティー、タキシラー、中部インダス地方を支配した。その後、アジリセス、さらにアゼズⅡ世と王統が続いた。スキタイ=サカ族のクシャトラパ(大守)であるゼイオニセスやカラホーステースや息子のハジャトリアサなどが知られている。
    次に紀元前1世紀中頃から1世紀にかけてのスキタイ=サカ族のアプラチャラジャ朝について確認する。アプラチャラジャ朝は、バジャウルに首都をおいたガンダーラのスキタイ=サカの王朝である。主にインドラヴァルマン王周辺の舎利容器(インドラヴァルマンの銀の舎利容器バジャウル舎利容器、息子のヴィジャヤミトラの妻のルクナの奉献したルクナ舎利容器)の奉献の碑文から知られている。系統としてはヴィシュヌヴァルマ(アプラカ族の王)からインドラヴァルマン、ヴィジャヤミトラ(前12~20)、アシュパヴァルマンと王統が続いた。
    紀元1世紀において重要なのは、カシミールのジャンムーからマトゥラーに南進し北クシャトラパ王国を築いたラジューヴラと息子のショーダーサなどのマトゥラーのマハークシャトラパ系統である。大英博物館のマトゥラー獅子柱頭碑文や硬貨などによって彼らは知られている。マトゥラー獅子柱頭碑文は、ラジューヴラの第一王妃であり、アゼスⅡ世の後継者であるカラホーステースの娘アヤシアによる、仏陀の舎利の説一切有部に対する寄進について述べられている。また碑文には彼らがサカスターナの出身であったことが示唆される一文がある。ラジューヴラ、ショーダーサ親子以外に、クシャトラパとして、古銭からハガーマシャ、ハガーナ、シヴァダッタ、シヴァゴーシャ、トーラナダーシャ、ヴァジャタタジャマ、カニシカ王の時代のクシャトラパとして、カラパラナ、ヴァナスパラなどが知られる。スキタイ=サカ族と仏教の関係性は非常に興味深いテーマであるので、今後仏像起源問題との関係でできれば深めたい領野である。


【パルティア人】
 
 
 スキタイ=サカ族の一部が、パルティアに南進し、前130年頃にヘルマンド湖周辺に定住したが、彼らをインドに再び追いやったのが、この地を領有するパルティアの有力貴族であるスーレーン家であった。彼らの一族出身と言われるゴンドフェルネス(20~46)が、アルサケス朝パルティアから独立して、建国したのがインド・パルティア王国である。ゴンドフェルネスの年代は、タクティ・バーヒー碑文によって知られるが、『トマス行伝』においてインドの王として登場するのも彼である。彼の後継者はゴンドフェルネスⅡ世(サルペドネス)、さらにゴンドフェルネスの甥のアブダガゼス(50~60)、ゴンドフェルネスⅢ世(オルタネス)、アプラカラジャ朝のアスパヴァルマの甥のゴンドフェルネスⅣ世(サセス)、パコレス(100~135)などがいる。



【クシャーナ族(大月氏)】
 
 
 
 まずは笵曄の『後漢書』より、月氏の貴霜(クシャーナ)について引用する。
 
 
 
初め、月氏、匈奴に滅ぼさる所となりて、遂に大夏(トハラ)に遷る。その国を分くるに、休密・双靡・貴霜・朕頓・都密の凡そ五部臓侯と為す。後に百余歳にして、貴霜臓侯の丘就卻(クジュラ・カドフィセス)、四臓侯を攻め滅ぼし、自ら立ちて王と為る。国号を貴霜王とす。安息(パルティア)を侵し、高附(カーブル)の地を取り、また濮達(バクトラ=バルフ=玄奘の縛喝国か?)・罽賓(ガンダーラ)を滅ぼし、その国を悉く有す。丘就卻(クジュラ・カドフィセス)、年八十余にして死す。子の閻膏珍(ヴィマ・タクトゥ)、代わりに王と為る。復た天竺を滅ぼし、将を一人置きてこれに監領せしむ。月氏これよりの後、最も富盛となる。諸国これを称して皆貴霜王と曰う。漢その故号に本づき、大月氏と言う。
 
 
 匈奴に追われた大月氏が、塞族をガンダーラに押し出して、大夏を支配したことが『漢書』に述べられていたが、彼らの一支族であるクシャーナ族が力を蓄え、クジュラ・カドフィセスの代に他の四翕(臓)侯を滅ぼしてクシャーナ王を称した。1993年に発見されたラバタク碑文によって、クジュラ・カドフィセスの王統は、
 
 
クジュラ・カドフィセース(1世紀)
ヴィマ・タクトゥ(1世紀)
ヴィマ・カドフィセース(2世紀)
カニシュカ(127~149)
 
 

(マトゥラー博物館のカニシュカ王の像    筆者撮影)

 の順番で続くことが近年、ようやく判明した。バルタク碑文発見以前の歴史書だとヴィマ・タクトゥは知られておらず、またクジュラ・カドフィセースとカニシュカは別系統であるとされていた。バルタク碑文では、ウンマ神、ナナ女神、ウンマ女神、アウルムズド神、スロシャルド神、ナラサ神、ミフル神への祈りが捧げられていて、ゾロアスター教というより、アルメニアやパルティアなどの宗教と近似した習合的な様相を呈しているが、ヒンドゥーや仏教の要素はない。クシャーナ朝自体はインド史を考えるうえで重要であるが、今後さらに詳しく見ていく機会もあるだろうから今回は簡単に触れるにとどめる。カニシュカ王は筆者が初めてその名前を聞いた中学生の時に「前世想起体験」の兆候として述べた金屏風体験をした人物である。しかしこの辺りの時代における筆者の過去世がどうなっていたかの詳細はつめていないので、不明である。アショーカやデーメートリオスやプシャミトラ、カーラーヴェーラといったこれまで登場した諸々の王達には、一切親近感は湧かないのであるが、カニシュカ王だけは意味不明に好きであり、上記のマトゥラー博物館のカニシュカ像の写真は今まで撮った写真の中でも最高レベルにお気に入りの写真である。このような無意味な選好には何らかの意味があると考えるべきである。この時代に生きていたのか、或いはカニシュカに仕えていたのかは謎であるが。ガンダーラ美術よりマトゥラー美術が普通に好きで、マトゥラー博物館は大のお気に入りだが、ただ土着のヴリンダーヴァンやマトゥラーのクリシュナ信仰関係については興味があまり湧かないところに二世紀の筆者の過去世を解く鍵があるのかもしれない。
 ここまで紀元前2世紀から紀元2世紀までの400年間に北西インドに侵入した四胡(ギリシア人・サカ人・パルティア人・クシャーナ族)について確認した。とは言え、インド・グリーク朝の系統史などは、いくつかの情報からの継ぎ接ぎに過ぎず、自分の中である程度満足のいくレベルでは整理されていないと感じざるを得ない。この辺りをきちんと整理するには、少なくとも大乗仏教起源史の研究に掛けたのと同じ程度、つまり半年ぐらい、それだけに集中して、また資料もお金をかけて収集しなければ難しいと思われる。しかしそれは筆者にとって特に興味深いテーマではないので、やろうとは思えないのて、この程度で満足しておくことにしたい。とりあえず、前2世紀のギリシア人のヘゲモニー体制(デーメートリオスⅠ世、エウクラティデスⅠ世、メナンドロスⅠ世)から、それが徐々にスキタイ・サカ人(マウエース、アゼズ等)に前1世紀ぐらいに移行して、紀元1世紀前半には、パルティア人(ゴンドフェルネスⅠ世)がそれを握り、紀元1世紀後半にはクシャーナ族(クジュラ・カドフィセース等)のヘゲモニー体制がインドで確立されたという大まかな流れが捉えられたところで十分であろう。

 これで前回の記事のシュンガ朝とカーンヴァ朝、そして北インドの群小部族国家と、今回の四胡(ギリシア人、サカ人、パルティア人、クシャーナ族)を合わせて、大乗仏教起源の時代におけるおおよその政治状況と王権に関する歴史的コンテクストが理解されたことになる。それは大帝国のマウリヤ朝が崩壊したポスト・マウリヤ朝の時代であり、権力の分散化が進んでいった。仏教徒から見れば、それは仏教黄金期の終焉であり、王権の関心はヴェーダ教が主となり、民衆の間からヒンドゥー教が勃興した時代でもあった。また北インドには異民族が割拠、侵入し、混迷の時代を迎えていた。こうした時代であっても、その時代を描いたテクストというものは、少ないのであるが、その中にあって金字塔の如く、聳え立つ文献がある。『ミリンダ王の問い』である。筆者はこれまで『ミリンダ王の問い』は、所有してはいたが退屈過ぎて、なかなか興味を持って読むことができなかったのであるが、大乗仏教興起時代の歴史的コンテクストの探求を行った後に読むと、それが資料として宝の山であることに改めて気づかされた。というわけでシュンガ朝・カーンヴァ朝、四胡群小部族国家林立時代をある程度、抑えた上で我々はつぎに同時代資料と言っても過言ではない『ミリンダ王の問い』について研究していきたい。パーリ語の『ミリンダ王の問い(ミリンダ・パンハー)』と漢訳の『那先比丘経』があり、時代的には漢訳の方が古層に属するのであるが、最初にパーリ語の『ミリンダ王の問い』を先に検討し、後に漢訳との相違を見ていくことにしたい。まず我々にとって興味深いミリンダ王ことメナンドロスⅠ世の都サーガラの詳細の描写があるので全文引用する。


ヨーナカ人の、あらゆる物資交易の中心地たるサーガラと名づける都市があった。山河の風光が明媚で、美しい地域であった。遊園地、庭園、森、泉、そして蓮池がそなわり、川や山や林によって<この都市は>たくみな技術者の設計したものであった。敵や反逆者は追い払われ、かれらの危害を受けることがなかった。<というのは、>多種多様の堅固な見張り塔と城壁があり、もっともすぐれた城門と塔門があり、そして深い堀と白い城壁がこの都市をとりかこんでいた。道路、路地、十字路、四つ辻は整然と区画されていた。多くの高価な品物が商店に満たされ、きれいに並べられていた。<都市は>各種の布施堂によって美装され、かつ、ヒマーラヤ山の山頂のごとく<そびえたつ>十万の豪壮な邸宅で飾られていた。<道路は、>象、馬、車、歩行者であふれ、美しい男女の群れが列をなし、王族、司祭者、庶民、隷民のそれぞれの階級の人々が群がっていた。人々は種々の修行者やバラモンに挨拶をして喚声をあげ、多くのちがった学派の指導者たちが、<この地に>好んでやってきた。商店には、カーシやコードゥンバラなどに産するあらゆる織物が豊富に置かれ、またきれいに並べられた各種の美しい花や香料を売る店からは、芳香がただよってきた。人々の心を奪う多くの財宝が充満し四方に面した飾窓に贅美な品を陳列した商人たちの組合が並んでいた。<都市には、>貨幣、金、銀、銅、宝石が充満し、輝く宝の国のようである。穀物、財産、生活物資は豊かで、倉庫や蔵庫に充満していた。多くの食べ物や飲み物、各種のおいしい硬い・軟らかい・ねばりのある・飲める食べ物が豊富である。あたかもウッタラクルのごとくであり、穀物の完備していることは、天の都、アーラカマンダーのごとくであった。
 

 ギリシア人王デーメートリウスのパータリプトラ進攻のギリシア人の顔とは別の顔として、世界征服者アレクサンドロスの系譜につらなるインド・グリーク朝のギリシア人の王メナンドロスのデーメートリウス以来の都サーガラは、上記の如く繁栄を極めていた。サカ族やパルティア人、クシャーナ族が侵入したのも、こうした繁栄を極めたインドの都市に対する欲望であった。『ミリンダ王の問い』において、舞台となるサーガラが上記の如く描写された後、主人公のメナンドロスとナーガセーナ比丘の過去世の因縁譚が語られる。興味深いのはパーリ聖典におけるナーガセーナの生い立ちである。彼はヒマーラヤ山腹のカジャンガラという村のブラフマーナの家に生まれる。カジャンガラは、インド東部の現在のラージマハル周辺とされる。そこに仏教のヒマーラヤから派遣された比丘であるローハナが托鉢に訪れる。ナーガセーナはブラフマーナの先生につき、三ヴェーダを学ぶ。彼は三ヴェーダ、語彙・儀軌・音韻論・語源論、<第四のアタルヴァ・ヴェーダと>第五としての歴史伝説において知慧の眼が生じ、博識にして文法を知り、順世論や偉人の観想に通じていたと述べられる。第五のヴェーダとしてのプラーナがヒンドゥー教の起源となるところであるから、ナーガセーナのこの学問の描写から、ヒンドゥー教がブラフマーナに受容される過程が理解できる。そもそもプラーナは、スータといった職業吟遊詩人の人々によって伝えられたと考えられるが、そうした人々の教えはブラーフマナには、第五のヴェーダとして受容され、伝承・口伝され、取り入れられたのであった。しかるに少年ナーガセーナにおいてかかるヴェーダの学習は満足を与えるものではなかった。
 
 
「友よ、これらのヴェーダは実に空虚である。友よ、これらのヴェーダは実に籾がら<のごときもの>である。価値なく、真実のないものである」と<叫んで>後悔し、心楽しまずにいた。 
 
 その時、比丘のローハナがやって来る。ナーガセーナは彼を見て、「おそらくこの出家は、いつか真実を教えてくれるであろう」と思った。彼はローハナに食べ物の布施をし、ローハナが最上の聖典を知っていると断言するので、父母にローハナへの弟子入りの許可を求める。
 
 
『お母さん、お父さん、この出家者は「この世において最上の聖典であるものを知っている」と言います、けれども、自分のもとで出家しない者には<それを>授けません。で、わたしはかれのもとで出家して、その聖典を会得しとうございます』
 
 
 父母は『子供よ、<それを>会得しなさい』と許可を与える。ここにお釈迦様以降のブラーフマナ階級の者がいかに仏教に出家したかの様子が述べられていて興味深い。知識階級としてのブラーフマナ階級にとって知識の会得は至上命題であった。父母もナーガセーナの出家を特に宗教的に改宗するというような大事な感覚で捉えていないのが分かる。ある種、文法学などと同列に一つの分野の知識を獲得する為の徒弟修業に出すような気楽な考えであったようである。また在家という観点からナーガセーナ一家を見ると彼らは、仏教徒ではなくヴェーダを信奉するブラーフマナ階級であった。当然ながら托鉢に比丘は普通にやって来るわけであり、そこで何らかのきっかけがあれば、教えを受けることもあったと考えられるが、それは基本的には出家が前提であった。仏教は紀元前2世紀当時、お釈迦様以来の出家主義であった。ここからヴェーダやヒンドゥーの教えを排除して純粋に仏教を信じるブラーフマナ階級の在家というものが、当時、多数存在していたのか疑問を抱かざるを得ない。お釈迦様というカリスマがいた当時ならいざ知らず、新規で三宝に帰依して五戒を受けるブラーフマナ階級の在家がいたのかは疑問である。それはブラーフマナ階級からの逸脱であろうから、かなりの心理的、社会的抵抗が予想される。彼らは従来のヴェーダの伝統の中で生活し、その中でやや仏教の影響を受けたり、それに興味を持つといった関心の濃淡はあっただろうが、ブラーフマナ階級における純粋な仏教徒の在家というものはほとんどいなかったのではないかとも思われる。ブラーフマナ階級においては、出家することによって、初めて、ヴェーダ教の伝統から離脱するのであり、それまではナーガセーナの生い立ちの如くヴェーダの伝統の中に自らをおいていたと考えられる。これがクシャトリヤやヴァイシャとなるとまた違ってくるのかもしれない。階級の高さはブラーフマナの伝統との関係の深さと比例するので、より階級が下に行くほどに仏教徒への改宗可能性が開かれると想定できるだろう。ブラーフマナ階級を中心とするヴェーダの伝統に則った集合の、その辺縁と外側にヴェーダの縛りの緩和された人々による、仏教徒の在家集団が成立する余地があったと言えよう。そして外国人ともなれば、純粋な仏教徒の在家になるのは比較的に容易と考えられる。在家集団というものを検討するうえで、こうした紀元前2世紀頃の仏教徒の在家の様子を推論する材料を与えてくれるという点でも『ミリンダ王の問い』は興味深いと言える。
 ナーガセーナはローハナ尊者に出家し弟子入りする。ローハナ尊者は、彼に三蔵のうち、経蔵(スッタ・ピタカ)や戒蔵(ヴィナヤ・ピタカ)ではなく、最初に論蔵(アビダンマ・ピタカ)を教える。そこで列挙されるのは、事実はともあれ、南方分設部のそれである。つまり『ダンマサンガニー(法集論)』『ヴィバンガッパカラナ(分別論)』『ダートゥカターパカラナ(界論)』『プッガラパンニャッティ(人施設論)』『カターヴァットゥパカラナ(論事)』『ヤマカ(双論)』『パッターナッパカラナ(発趣論)』の七つである。これを師の一回の読誦で暗誦する。当然、口承である。ナーガセーナが満20歳になるとヒマーラヤのラッキタタラで具足戒を受ける。ここで筆者が注目するのが、このヒマーラヤのラッキタタラに住む謎の無数の阿羅漢集団である。この人々は、神話的な後光の下に描かれていて、この『ミリンダ王の問い』のミリンダ王とナーガセーナの過去世の因縁を様々に調整し、最終的に二人の討論を画策したのも彼らであった。パーリ版『ミリンダ王の問い』において、影で糸を操る陰謀集団、ディープ・ステートないしディープ・ネットワークが彼らであった。ナーガセーナの師ローハナを派遣したのも彼らであり、ナーガセーナに具足戒を授けのも彼らであり、最終的に覚醒したナーガセーナにミリンダ王のところに行けと指令を出したのも彼らである。ここで彼らは本上座部の名で知られる雪山部の人々と関係しているのではないかと筆者は睨んでいる。そこのところは、今回の記事の上座部の部派のところで論じたい。話を戻すが、その後、ナーガセーナは内心で師のローハナが、経蔵や戒蔵を教えず、論蔵のみを自分に教えたことを不満に思う。それに気づいた師ローハナは、ミリンダ王を論破するまではナーガセーナを許さないと述べる。雨期の時期にナーガセーナは、尊者アッサグッタの下へと行く。アッサグッタには30年使えて給仕する婦人の信者がいた。婦人の信者に給仕されたナーガセーナは、論蔵の中の出世間の空性に関するアビダンマ説をもって婦人に感謝を述べる。
 ここでナーガセーナが論蔵から空性についてその深甚の説で謝意を述べているという記述がパーリの『ミリンダ王の問い』にあるというのは興味深い。空の思想は、『スッタニパータ』にも言及があるとはいえ、基本的にそれが前面に出てくるのは大乗仏教の般若経思想以降として我々は理解しているのだが、字面だけで受け取れば、論蔵の「空」に関する説を語ったということのようである。ここで可能性として①単に論蔵における空論を語った。②大乗仏教の空論を取り入れてパーリ語版の『ミリンダ王の問い』が成立した。という二つが考えられるだろうが、どちらなのか判然としない。無着が部派の空観を理解できず自殺しようとした話もあるので、この辺りは今は深くつっこまないで、先を急ぐ。この空説を老婦人に述べたところ、老婦人は悟りを開き、ナーガセーナも同様に「聖者の流れにはいった位」を獲得したと述べられる。つまり暗誦はしていてもその境地には達していなかったナーガセーナがここで預流果を得たのであった。その後、尊者アッサグッタにナーガセーナはパータリプトラに行くように言われる。パータリプトラのアーソカ園(アショーカーラーマ)に行き、そこにのダンマラッキタに教えを受けるよう言われる。ダンマラッキタは、後の部派仏教の上座部系で述べるが、アショーカ王にインド西方のアパランタカ(シンドゥやグジャラート)に派遣されたギリシア人僧である。途中、パータリプトラに向かう富裕の商人と出会う。この商人は自らアビダンマ師と名乗っている。彼は在家のアビダンマ師だったのである。ナーガセーナのアビダンマの章句を聞いて、この富裕の商人は、離塵・離垢の真理の眼を開く。在家の富裕の商人であってアビダンマ師(アービダンミカ=論の奉持者)であるということが、興味深い。つまり在家でも、比丘でもその論を暗誦していれば、アービダンミカであったというわけである。武術で言えば、内弟子と外弟子の違いみたいなものであろう。当然、内弟子の方が強くなる可能性はあるわけだが、外弟子であっても個人的な実力次第ではそれなりに強くなる可能性はあるのだから、お釈迦様の教えの伝承において、比丘と在家にそれほど差別はなかったと考えられる。かくてナーガセーナは、アショーカーラーマの尊者ダンマラッキタの下で三ヶ月で三蔵(経と戒と論)を学ぶ。しかしダンマラッキタは、手厳しく、ナーガセーナにお前は教えを覚えたが、その境地には達していないのだと述べる。しかしナーガセーナは発奮して一日で阿羅漢の境地に達する。ヒマーラヤのラッキタタラに呼び出されたナーガセーナはミリンダ王を論破するよう言われる。その頃、ミリンダ王はサーケータ近くのサンケッヤに庵を構える尊者アーユパーラに対論を申し込んだ。そしてアーユパーラはミリンダ王に論破されてしまう。やがて、ナーガセーナがサンケッヤにやって来る。それを聞いたミリンダ王がナーガセーナに対論を申し込むというのが、ミリンダ王の序章である。そこからミリンダ王とナーガセーナの話は、紀元前2世紀のオーソドックスな仏教思想によってミリンダ王が説き伏せられる話である。つまり「感覚がミリンダ王なのですか?記憶がミリンダ王なのですか?」といった、身・受・想・行・識、どこをとっても実体論的な自我が存在しないことや、輪廻などについてがその主要テーマである。誰でもできる遠隔透視方法を開発し、初歩的なクンダリニー覚醒した筆者から言わせれば、その内容は、初心者講習会レベルの内容なので、輪廻があるのかないのか、本当の自分とは何なのかといった、散々このブログでこれまで述べてきた事柄であって特別に検討する必要を感じないのは、筆者の特権であると言ってもいいだろう。そういう思想内容に興味関心を割く必要がなく、大乗仏教起源史を理解する為の外的形式に集中できるのは修行の成果と言えるだろう。

 『那先比丘経』については、水野弘元の『ミリンダ問經類について』(1959)をもとに論じる。60年以上前の論文なので、現代において『那先比丘経』の位置づけが変わっている可能性があるかもしれないが、筆者の情報収集能力では水野論文以上のものを探せなかったので、寛恕を乞う。水野論文では『那先比丘経』は、パーリ語『ミリンダ王の問い』より古層に属し、後漢の安世高の訳語と比較しても、その訳語の稚拙さや、不統一不確定さ、偈を散文で翻訳しているなどの諸例から後漢から遅くとも三国時代のものと推定している。『那先比丘経』はパーリ語の第一編のみの翻訳であり、二巻本と三巻本が伝わるが、二巻本の方が古い。また残念ながら訳語の不統一や翻訳の古さも影響した為か、中国や我が国で『那先比丘経』が愛読されることはなかった。我々の論考において、興味深いと思われる点を述べていくと、パーリ経典では、ナーガセーナの出生地がインド東部であったのが、天竺とのみ記されていること。その師の楼漢(ローハナ)はナーガセーナの舅父(母の兄弟)となっている。ローハナより十戒を受けて沙弥となり、その後、詳細不明の和戦寺にて、羅漢の頞波(パーリ経典のアッサグッタ)より、大沙門の経戒を20歳で受ける。同じく、八、九十歳の加維(カヴィ、迦維とも書かれている。)にも師事し、この僧に飯を給する在家の信者が、ナーガセーナに僧侶が経を説いてくれないと歎き、経を説くように懇願する。ナーガーセナは哀れんで経を説いたところ、この在家の信者は四果の第一である預流果に達する。しかし勝手に教えを説いたと師匠に叱られナーガセーナは放逐されてしまう。その後、発奮して樹下で大悟する。話の大筋はパーリ経典と類似しているが、登場人物が加増され詳細が増しているのが、パーリの方である。『那先比丘経』の和戦寺がどこを指すのか謎なので舞台がはっきりしない。水野は、パーリ版だと、五大河が、ガンガー流域の五つの川の名(ガンガー・ヤムナー・アチラヴァティー・サラブー・マヒー)とされているのに対し、漢訳では五つの川の名が、パンジャーブのガンガー、シンドゥー、シータ、ヴァクシュー、サラスヴァティーになっているところから漢訳は、パンジャーブ周辺の北西インドで経典化され、パーリ版は、マガダ国などのガンガー流域で経典化されたと推測している。ナーガセーナが果たしてどこの生まれなのか、確定はできないが、パーリ版で舞台設定が若干、東に移された可能性も否めない。またナーガセーナの部派についても不明である。しかし、パーリにせよ、漢訳にせよ、師弟関係ははっきりしていても、部派的なものはまだ強く意識されていなかった可能性も考えられる。我々はどうしてもはっきりと部派が別れて党派性が生まれたように考えがちであるが、本来、ノマド的な僧侶がどこまで戒律の相違のみで自らの部派を意識していたのかは疑問が残る。完成した部派の歴史のよって判断する習性を反省し、当時の僧侶の意識の中ではっきりと部派の区切りがされていたかは一度疑ってみる必要があるだろう。パーリに残されたアショーカ・アーラーマでの修業を見ると、大衆部的な影響の強い、東の出身であるので、ナーガセーナは大衆部出身ではないかと考えたくなるが、ダルマラッキタに教えを受けたとなると、やはり上座部の可能性の方が高いだろう。バクトリア地方に派遣されたギリシア人僧侶のダルマラッキタが、その後、パータリプトラに戻って首座についているところは興味深い。しかし、パーリ版として残っているところから言えば、南方分別部に所属しているとも思われるが、漢訳ではオーソドックスな仏の教えを在家の信者に説いたことのみ述べられているが、パーリ版では空について語ったと大乗的ともとれる要素が加えられているので、純粋な大寺派の南方分別説部ではなく、無畏山寺派の大乗上座部伝来の可能性を思わせる点もある。ミリンダ王の本拠地のサーガラからナーガセーナの所属が有部を想像させるが、有部の『雑宝蔵経』や『倶舎論』に引かれている『那先比丘経』が原初的なものではないと水野が述べているので、原『那先比丘経』は有部伝来のものより古層に属し、どうもナーガセーナを有部出身とすることはできなさそうである。ここから、北方に志向性を有していた本上座部系(雪山住部・化地部・法蔵部・飲光部)のいずれかの部派の者が『那先比丘経』を中国に伝えた可能性が考えられるだろう。ヒマーラヤのラッキタタラから雪山住部の可能性も高そうである。本上座部からの分派である南方分別説部がスリーランカーにパーリ版を伝えのであろう。またミリンダ王の住むサーガラ近郊の僧侶アーユパーラが論破され、マガダ国の僧侶のナーガセーナがミリンダ王を論破しにやって来るという物語の筋は、有部に対する中インド仏教の優位性を語っているとも読み解ける。とは言え確かなことはよく分からない。

(『ミリンダ王の問い』におけるナーガセーナ比丘の侵攻ルートであるカジャンガラ・パータリプトラ・サーカラーを結んだ線、デーメートリオスの侵攻ルートと奇しくも対向している)