顕進様のお話の中でこのような証がありました。

リーダー達を乗馬に連れて行ったことがあります。
日本から来た一人のリーダーがいました。
彼は太っているわけではありませんでしたが、とにかく大きくてレスラーのようでした。

彼は馬を見ると、できないと首を振りました。
「恐れてはいけない。馬が気づきます」と私は言いました。
彼が乗った馬は大きな馬でしたが、おとなしい馬でした。

「(恐怖心を)自己主管し、心配しないでください」と言って彼を馬に乗せましたが、
彼の足が震えていたので、馬は走る合図(馬を走らせる合図は足で馬を蹴ること)だと思い、走り始めました。

馬が走れば走るほど、彼の足はさらに震えて馬はどんどん速く走りました。
結局、私が馬の前に行って彼を止めなければなりませんでした。

馬の立場からすると、足で蹴れば走るように調教されているので、
馬は、乗っている人の言う通りに動いているだけでした。

馬は騎手の命令に従っていたのですが、騎手が自己主管できていなかったので、
馬は騎手の思いとは反対の行動をしたのです。

騎手は馬の主体の位置に立つべきですが、騎手が自己主管できていなかった為、
馬を自分の思う通りに主管できなかったのです。


何とも言えない複雑な心情になりました。

祝福家庭なる者、モデル家庭としての手本を見せなければならない…というのが
顕進様が何回も強調される内容であったと思います。

いくら多くのみ言を知っていて、知的にいろいろと説明できたとしても、自己主管できていない、モデルとなれない姿は、それを見ている人達にとってはちょっと…ということでしょう…

最近、み言をもって人を裁く人を目にすることが多いのですが、
み言訓読の時間は悔い改めの時間とならなければならないと改めて思いました。