この前の日曜日、教会に通うことをやめた私たちは、
お父様のみ言を中心に訓読会をしました。

集まったのは8人。
訓読会をするにはちょうど都合のいい人数です。
なぜなら、訓読したみ言を中心に討論会もするからです。

お父様は「先天時代が終わり後天時代にはいった」と語られたものの実感できるものがなく、「後天時代と言われても…」と「あまりピンとこない」というのがその日集まったメンバーの本音でした。なぜなら「蕩減のない時代が後天時代である」と考えた時、それでも個人や家庭においてでさえも、困難は変わらずに存在するし、頭が痛くなるようなことがストレスとなって押し寄せてくるからです。

時間が経つことも忘れてしまうくらいに討論は続きました。

8人で頭を合わせて考え、意見しあう中、到達したひとつの結論がありました。
「後天時代における困難はサタンによる試練ではなく、神様が与えてくれた成長するためのミッション」「困難な状況を克服するために費やした精誠、克服する過程において体験したことがひとつの学習となり、そのことを通して成長することができる」というものでした。

何も難しいことがなく、楽なだけの人生であるならば、成長することもまたできないのではないでしょうか?

先天時代にはサタンによる蕩減のための試練がありましたが、
後天時代には神様による成長するためのミッションがあるのではないでしょうか。

地上天国が成就されたとしても、各個人、家庭、地域…さまざまなところで神様からのミッションは常にあるはずです。そうでなければ人は成長することができないと思います。

先天時代、困難な蕩減路程を歩む中では神様に対する信仰がなければ勝利することは難しかったですが、後天時代においては、神様に信頼される人間になれなければ、重要なミッションは任せてもらえないんじゃないだろうか…などと考えたりもします。

先天時代においても、後天時代においても、目の前に立ちはだかる困難には感謝の思いで…なのでしょうね…でも、同じ困難でも後者の方が気持ち的にはずっといいですね。蕩減時代を終わらせてくださったお父様に感謝の思いでいっぱいです。



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