今回の記事(サタンは自己憐憫と傲慢の扉を通って入ってきます)で憐憫という単語がありましたが、今まで教会内では愛の減少感という単語が一般的に多く使用されてきました。

愛の減少感というと...
「あの人はいいなぁ~」などという誰かを羨ましく思う思い...が思い浮かばれます。
神様から与えられた位置や立場に対する責任から離れて、自分よりも良さそうに見える立場や位置にいる人を羨ましく思う、自己の位置を離れた状態とでも言いましょうか...

自己憐憫というと...
「私は背景もそうだし...今の状況もそうだし...どうせ私なんか...」
などという自分を悲観した、ある意味、少し、いじけたような愛の減少感をいうのでしょうか?

どうであれ、神様に与えられた、神様が任せてくださった、私にしかできない責任を放棄した状態なのでしょう...???

人それぞれ、持って生まれた背景が違います。
当然、それに続く現在の状況、環境も違ってきます。
でも、自分の位置や立場を勝利しなければならない責任の重さや難しさというものは、誰もが皆、感じるところは同じなのかもしれません。違うとしたらそれに対する責任心情や神様のみ旨に対する理解度の違いなのではないでしょうか?

私が勝利しただけ、私の子供達や後孫に一段階アップした背景を残すことができるのだと思います。

子供達や後孫に私と同じ苦労をさせるのかどうか...
私にかかっているのではないか?と思いました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村