先日、ある大先輩が聖和されました。

生前、その先輩から祝福の証を聞いたことがあります。
お父様が36家庭を立てようとされた時、その先輩も候補にあがったそうです。
しかしその時その先輩には、まだ十分に原理が理解できていない、この世で出会った夫人がいました。

お父様は語られたそうです。
「もしも、お前がその夫人と別れるならば、新しい女性と祝福してあげよう」と…

しかし…
「私は結婚する時、一生、彼女に責任を持ちますと神様と約束をした内容があるので別れることはできません」と、丁寧にお断りしたそうです。
「では7年間、聖別しなさい」と言われ、その先輩は7年間、聖別しながら夫人に原理を伝えたそうです。

そしてお父様から
「お前は、私よりもマシだ...」と、これ以上の褒め言葉はないという褒め言葉をいただき、夫人と共に既成家庭として祝福を受ける事ができたそうです。

私は、その先輩はお父様から本当に原理が理解できているのかどうかという試練を受けられたのではないだろうか...と思いました。その後も、その先輩はお父様に対してはっきりと自分の意見を述べられたとおっしゃってました。

聖和されるまで、原理的な正しいものの考え方、姿勢というものを指導してくだった先輩にとても感謝しています。

ただ単に言われるままに「はい」と言ってすべてのことに無条件に従うことが正しい信仰姿勢ではないと思います。もしも、指示されるその内容が原理的なものではないと感じたらなら、納得できるまで討論することも時には大切なことなのかもしれません。

そのためには、原理が理解できていなければならず、神様のみ旨が何なのか理解できていなければならないのでしょうが...。お父様がみ言を訓読しなさい...と教えられたことには、もしかしたらそのような理由もあったのかもしれません。でなければ、教会に一生懸命かよって、常に指示されることに従順でありなさい…と教えられるべきだったのではないでしょうか?


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