「み旨の主人となりましょう」と、食口に、顕進様はよく語られ、
「主人意識を持ちましょう」と、食口以外のこの世の人には、このように、よく語られるのではないか?と感じました。
もしも私が何かの事業をしているとします。会社でも、お店でもかまいません。
会社であるならば、私は社長です。お店であるならば、私は店長です。
私はその会社、またはお店の主人なので、
当然のことながら、会社やお店の発展を常に考えます。
寝ても覚めてもです。
考えの全てが主人の考えなので、特に主人意識をもつ必要もないのです。
絶対に、会社やお店がつぶれるようなことは考えないでしょう。
ところが従業員であるならばどうでしょう?
月々決まったお給料さえもらえればそれでいいのです。
仕事の時間以外には、仕事のことは考えません。
ですから「主人意識を持ちましょう。」ということなのかも…という気がふっとしました。
違うかもしれませんが…
食口は、祝福家庭は、神様のみ旨に責任を持たなければならない立場です。
主人意識を持たなければならない外部の人ではありません。
主人にならなければならない責任者なのではないか?…と、思いました。
“主体と対象”という言葉がありますが、食口、祝福家庭は主体の立場に立たなければなりません。しかし現実のところ、対象の立場に立とうとする食口があまりにも多いように思います。天国を作ろうという人よりも、誰かが作ってくれる天国に入ろうという人達です。
考え方の根本がもうすでに、食口、祝福家庭ではない人があまりにも多いように感じます。
ですから、清平のようなところに魅かれるのです。
お金でなんとかなるのであるならば…
そうなってしまっては、いつまで経っても神様の子女にはなれないのではないでしょうか?
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