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【地上での内面的ゴール】
どの道に行くとしても、最終的には完全献身に導かれているのだと悟った夜
見える形でどのように働くか、仕えるかが本質ではなく、愛なる神様が見ておられるのは私の心、内面なんだよなと。
人はうわべを見るが、神は心を見るってこのことなんだろうな。
心を見られる神様だからこそ、私たち神の子(相続人)の心を聖めることを優先された人生の導き方をされている。
神の御心の一部を、感じることができた気がする。
【完全献身への導き】
自分は愛に献身をしたという自覚はあるし、これまでもあった。でも完全献身とは一線を置いていた弱さもあった。
完全献身=世捨て、教会フルタイムみたいなイメージがあって、抵抗がね。
教会に専属で働いてちゃ、イエス様を知らない魂との接点は減っちゃうし、という言い訳をしたりなんかして。
でもそこに隠れていたのは、人からの栄誉を求める動機だったりする。
もっと大きいのは、教会で働くって、愛の犠牲を永遠に続けるってのと変わらない裏側(実態)を知ってる分、肉が嫌がって敬遠してるんだよね。
でも、愛の犠牲を嫌がって完全献身からは一歩遠ざかっておこうという心の動機がある限り、人生のどの道(職業、ビジョン、)を選択しようと、神の定めからは遠ざかっていくことに気づかされた。
だって、神様が見ておられるのは、見える生き方の前に、その人の「心(動機)」だから。
【決意】
結論、どの道に導かれるとしても、この地上で僕が学ぶべきものは、愛への完全献身なのだなと。
ここでいう「愛」とは、十字架に完全に示された愛。 自分をここまで導き、憐れみ赦して下さった愛。
この愛に、どんなことがあってもついて行かせてください。
人知をはるかに超えた主のご計画に、素直に従います。
この決意へといつも導いてくださるイエス様の促しと、愛の深さに感動するばかり。
心が弱くなり、決意が折れそうになっても、主がいつも支えてくださるという望みを、モーセやヨシュア、ギデオンのように握り続けたい。