折り合い・・・


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2014.9月

とある日、私は

10年前、主人が

実母に肝臓移植をした、大学病院の庭に立っていました。


その、義母を看取る為

再び、この大学病院の地に立つ自分を

やはり不思議な感覚でその景色を見渡し歩いていました。


最期の義母とのこの時間は

壮絶ではありましたが

やはり

私と主人に与えられた、最後の親孝行の時間だったのだと思いました。


義弟嫁から『主治医の先生に、この週末が山だといわれました。』

という、電話に

主人、私、娘は、喪服を準備し

あわてて新幹線に乗った

週末の早朝。


新幹線の中で

それぞれの思いを抱きながら

落ち着かない心で、流れる景色を黙って眺めていました。


主人には、前日の夜

『たとえ、今、この瞬間にお母さんが亡くなっても、私は後悔しないから。』

と、言いました。

主人も『俺もそうだし。』

と、答えました。


主人と結婚して、3年後(約26年前)

息子が1歳の時でした。

義母は、実家自宅トイレで吐血し

肝臓病が発覚しました。


その時に亡くなっていてもおかしくないくらい

バケツいっぱいの吐血量だったそうです。


その後、診断により特殊な肝臓病である事がわかり

母の予後は、2~3年から、もっても5年といわれました。


今、私達が住んでいる地から

主人の実家まで、車で約5時間(新幹線で約3時間)

母が肝臓病になってから

私達夫婦は、いつ母が亡くなっても悔いのないよう

できるだけ、実家に子供を連れて帰るようにしていました。

私は、幼い子を連れながらも

実家に行けば、家事すべてを担い

私がいる間だけは、義母の代わりにできるだけの事をするようになっていました。


その頃はまだ、主人の5歳下の弟も独身で

早朝仕事に行く、弟の朝食の用意もしていました。
(実は弟は朝食を食べない習慣で、私が作る朝食が迷惑だったそうな(笑))

盆暮れは、主人が仕事で帰省できなくても

私と子供だけでも、なるべく実家に帰るようにしていました。


そんな、こんなで気が付くと

月日は15年を経ていました。


15年を過ぎた、その暮れのお正月

主人に、実母への肝臓移植の話がなされ

動揺して、自宅に戻った私達夫婦に追い討ちをかけるよう

実母の実弟から、手紙が送られてきました。


『○○家に、長年つくした、実妹を

どうか、実息子の肝臓で助けてやってくれ』という

内容でした。


動揺している私達には

その手紙の意味がすぐに理解できませんでした。


理解できた時は、怒りがこみ上げてきました。


そんな事は、私達夫婦が一番考えている事だし

それを決めるのは、誰でもなく

主人なんだと。


とにかく

色々な事に、折り合いをつけ

主人は、実母のドナーとなる事を決意しました。


私は、納得はできないけれど

ドナーになるにしろ、ならないにしろ

主人が選択した方に、従う決心をしていました。


私達夫婦は

今でも納得は、していませんが

この選択に全く後悔はしていません。


義母の最期の15日間

病院に付き添ったのは私でした。


主人は、認知症(この時は発症を知らず)の動揺する父を

自宅で面倒を見ながら、毎日片道1時間かけて病院に送迎をしておりました。

娘(20歳学生)は、義父によりそい、実家で私の代わりに家事をしました。


義母を看取った病院での15日間は、克明にメモしてありますので

また後日機会があれば、記しておきたいと思っています。


そんな、こんなで

いつも

何か事が起こる度に

心に

折り合いをつけ


こうして

私は


 
ここにいます。



2016.5.30 まちこ





☝︎の日から

また、新たに認知症の義父の問題が起き

2018年1月になるまで

ブログ(旧記事)の続きが書けませんでした。


少し、頭の整理をして

義母の看取りを記しておきたいです。



2018.2.1   まちこ