言葉は風である。

通り過ぎてはまた来る。

強く冷たい時もあれば柔らかく暖かい時もある。

無い時もある。

どこかで常にある。

でもそのほとんどはないも同然である。





人々が真偽の判断を確実に行える前提で現れるものがある。


良識である。


良識という言葉には感情が篭っている。それもドラマティックに



「嘘をつく」

を良識にできるか。



本当のことは言えない

本当のことは言わない

本当のことは言いたくない

嘘をつきたい

嘘をつくしかない

嘘はつきたくないが


私のために

あなたのために

みんなのために

今後のために

君と一緒に

みんなと一緒に

わたしだけ

あなただけに




一つの嘘をドラマティックに飾るのは簡単らしい

嘘をつく勇気


と後ろに勇気を付けるだけでも

あたかも自分の正義のためにそうしているようだ。

ただ嘘をついているだけなのに。




嘘八百の語源は江戸の町の多さを八百8町と言ったことや
大阪の橋多さを八百八橋といったところからであるらしい。

八百は多い。

それだけだ。



ならば嘘の語源は?

これは諸説あるらしいが

うつけ、空言がもとになってると言ったり

中国語の嘘の「息を吐く」や「口を開けて笑う」などの意味から嘯く「うそぶく」のうそを取ったという説もあるらしい。



何にしても偽り騙す為の手段であろうか。

格好だけの言葉であろうか。


それでも
コールドリーディング的に嘘をつかずに欺くことはできそうだ。

自分以外のために嘘をつくことのメリットは少なからず自分にしかないであろう。

ならば嘘をつく必要性は自分のためでしかないのか。




結局

風とホラ


吹いてもおけやは儲からないね