ある方から私の元に
伏見稲荷山のある社で撮られた
霊的写真が送られて来て、
→
その写真を見た時に
その方に降りているのは邪心の神霊。
その霊的写真は処分しなさい
と忠告したのですが、
→
そうした霊的写真が撮れたことに
ご本人は破棄することを拒否して、
真夜中に
その社に通う道を選ばれました。
→
死後に
魔界に行きたければ行けばよいで、
私はその方に対する忠告は
一切打ち切りました。
→
その社に常時、
邪心の神霊が
祀られているのかどうかは
解りませんが、
その方が撮った霊的写真は
間違いなく邪心の神霊を
写しているからでした。
ex
私が
伏見稲荷大社の夏祭りの宵宮。
伏見稲荷山の清明瀧の横にある
伏見稲荷大社の宿泊所の清明舎で
師匠共々宿泊していると
→
クーラが無いので
蚊取り線香をつけて
戸を開放して眠っていると、
夜中の2時か3時頃になると
→
横の瀧場から瀧音と一緒に
男性の声で
「天津祝詞」や「般若心経」を
上げている声が 聞こえて来ます。
→
行者が
丑三つ時の真夜中に瀧に入って
天津祝詞や般若心経を上げている
のではないのです。
→
生前は
行者や神主や霊能者であった霊が、
真夜中の瀧場に来て
一生懸命に天津祝詞や般若心経を
上げているのです。
→
はっきり言えば、死後に
天国界に進むことも出来ずに
迷い霊として
死後も
瀧場で瀧行に励んでいるのです。
霊場とは
=
霊が集まる場所であり、
正神とか善神が集まる
ではないのです。
→
昼と真夜中では違って来たりします。
→
そうした霊を哀れと思えども、
→
そうした行を積まないと
天国とか神の世界に行けない
と思っていることが
根本的間違いの元なのです。
生前、行者や霊能者をしていて
死後に天国にも行けず、
何百年間も
信者諸共迷っている霊等は
別に珍しいことではありません。
ex
私が
玉置神社に参拝に行った時、
同行していた霊能力がある女性に
平安時代と思われる行者の霊と
その信徒の一団の霊が懸かって、
大変なことになったことがあります。
→
その前夜、
その女性が十津川の温泉ホテルで
1人で入浴しておられると、
その風呂場で
行者霊が般若心経を上げるで、
その女性は
霊の声に震え上がってしまわれた。
→
霊と言えども相手に
自分の裸を
見られているわけですから
怖いと言うよりないわけです。
その翌日に その行者霊と
何百体という信者霊を
一気に上げるになってしまった
のです。
→
その女性は
若豊受神の御魂の持ち主なので、
半分の霊は
その女性が天河弁財天を通じて、
残りの半分は
私が大峰山の洞川・龍泉寺で
結果として上げるになりました。
→
と言っても肉体の私が
自分の意思で上げた
ではなくて、
私を守護している背後霊団の霊達が
私の肉体に入ってお経で上げて
龍泉寺の八代龍王に託したのです。
→
私は自分の肉体を
そうした守護霊に貸して、
自分の言葉として
お経を上げただけの話です。
→
数体の霊ならば
肉体の私のお経でも可能
とはしますが、
それだけの数ともなれば
私個人では手に負えません。
→
守護霊を通じて
神社とか仏閣にお願いする
となります。
霊的世界を見聞していますと、
天国界に行けずに迷っている霊や
落ちている霊は数知れません。
→
で、そうした霊が
既存の神社に参拝したら、
その神社の御神霊に
助けていただけた等の話は
あまり聞きません。
→
どちらかと言うと
その御神霊の
お代(取次者)をしている霊能者が
不憫と思って、
→
その霊能者が
御神霊にお願いすることによって、
力を貸してくださるなのです。
助けてくださるなのです。
玉置神社で
何百体という霊が
何百年と迷っていたわけです。
→
そこにたまたま
若豊受としての分魂を持った
肉体の女性が現れたので
→
その人に助けて欲しい霊達が
懸かったことによって、
→
天河弁財天様も力を貸されたであって、
肉体を持った者が介在しないと
霊だけでは単独に
霊界で上がるのは困難なのです。
はっきり言えば
神社や仏閣に鎮まっている神霊が、
地獄に落ちている霊や
迷っている霊を
積極的に助けるなどないのです。
→
ですから
そうした霊は何百年も
誰からも助けてもらえずに
迷っているのです。
行者は
=
魔界の霊と取引すれば、
霊力を得ることは出来ます。
←→
しかし、
そうした霊力を得られたとしても、
自分自身の天国への道は
閉ざされてしまうのです。
この世で霊力を得ることは、
必ずしも
天国に近づくにはあらず
天国天人界に進むのと
神霊と成るのは
=
必ずしも同じ道ではありません。
→
世に悪神と呼ばれる存在は多数あります。
そうした悪神は
天国天人界に行くではないのです。
←→
天国界は
=
良心や正義や博愛の精神を
持つ者達の世界
です。
=
この世を
自分勝手に生きて来た者が
渡る世界 ではないのです。
一部の方に、
自分はみろく世行きの切符を
数枚所持しています。
→
その数枚の切符の中から、
一枚を貴方に差し上げます等の話
があります。
お金で売るではありません。
私はそうした話に
別に「異論」は唱えません。
→
それはみろく世行きの切符を
数枚持っていると
言われる方の魂には
=
正守護神が出ていて、
その肉体は
それなりに神業をされています。
→
また
その切符を貰われた方も
同じ系列の御神霊が
背後に在ったりするからです。
同じ神系列の魂の誼(よしみ)です。
→
それはスピリチュアルで言う
ソウルメイトの話
←→ではなくて、
背後の御神霊が
同一系統だから起きる話です。
スピリチュアルの言葉を
世に広めた霊能者は
江原敬之さんで、
それは
ご自身が豪語されています。
→
確かに霊的なことはよく見えておられます。
→
しかし、江原敬之さんは
落ちている霊を救う。
不浄仏霊を助ける力がまったく無いことも
オーラの泉などのテレビを見ていたら
誰の目にも明らかでした。
→
それは霊的な事柄を見る能力と、
霊を助ける力
とでは違うということなのです。
そうした
超常現象を紹介するテレビでも、
→
なんとなく見ているではなくて、
←→
深い洞察力で見ていれば
霊界の仕組みは
ある程度解るのです。
テレビなどの
あの方の前世は何々であった等、
→
人は
輪廻転生の過去を背負って
現在があるのであって、
→
過去世のことを
ほじくり返すなどは
ほとんど意味も必要もないこと
だからです。
今の人生をもって、
霊界の位置が決まる
と言われるように
誰しも
「今生が勝負」であって、
過去世の勝負ではないのです
自分は過去世で高い姫であった。
→
そんなことを言われても、
今の貴方に何の関係があるのですか
なのです。
→
過去世が過去世がと言って、
過去世の自分の地位が
今の世に戻って来る
ではないのです。
常に 今生が
神上がりの勝負時
なのです
今生の自分の生き方が、
=
死後の霊界での
天国行きや 神上がりをする
なのです。
→
他人さんが自分を上げてくれる
のではないのです。
自分自身の道なのです。
それは
人の身である時がチャンス
なのです。
霊界に入ってから
では遅いのです(それでは後の祭りよ)
人は神とも成れる存在。
人として優れているとは
霊能力に秀でているではない
神之公園さんブログ
『人に内在する良心神』2016.09.24 より抜粋
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=444#trackback
ここまでお読みいただき、
お時間をありがとうございました。
良心、正義、博愛 を持つ者達の世界が天国だそうです。
良心、正義、博愛、を自分の心に一杯にして、
自分の在り方を反省し、
より良い自分を作っていきましょう。
今生が神上がりの勝負、だそうです。
自分の中の良心神と共に勝負の1日を頑張りましょう。
本日も寒くなっております、
お身体の調子を整え、暖かくしてお過ごし下さい。
惟神霊倍坐世 かんながらたまちはえませ