私はこの「火」は何だろうと追求して来ました。
その中で知ったのは、
天の岩戸の内に隠された光
=「殺光線」であるなのです。
・・・自分の魂に汚れがあると、
その汚れが「火」として燃え上がるなのです。
天の岩戸の光とは、
=日本神話の中にある
素戔嗚尊の暴力に姉君の天照大御神が
天の岩戸の中に隠れてしまわれた
などという子供騙しの話しではないのです。
ただ、そこには非常に重要な意味があるのです。
→素戔嗚尊が
魂の殺人光線に等しい裁きの光の
天の岩戸を閉めるなのです。
ですから、前のブログ(神之公園さんブログの5月10日以前)
「最後の審判の火の越中は、富(十三)山に逃げる」となります。
大本教の出口王仁三郎聖師が
救世主は「ス(十三)神の素戔嗚尊」だとされた演技
はここにあるのです。
スピリチュアル=自分に〇〇霊が降りて来たでは
→最後の審判の時には何の助けにもならないのです。
私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、
私に
【日本神話の神代のことは
この私が最後の審判の目的の為に
創作させたものであり、
神話の部分はそうした事実は存在していない。
そなたは何故に私があのような日本神話を
創作させたのか学びなさい。
特に天の岩戸開けの部分は重要ぞ】
と告げられたのです。
私が修業のお世話になった豊受姫様も
「日本神話の天の岩戸開けのような事実は
どこにも存在していない」
と言われておりました
神々と言っても
=「宇宙初発の神々」と、
後から後発の 枝の枝の枝葉と言うべき神々
も居られます。
…それらは御神名が同じでも神格は違うのです。
・・・大本教の出口王仁三郎聖師は
神界の階段は
=百八十段と言われたように、
神と言っても同格ではないのです。
…枝の枝の枝葉の比較的新しい御神霊だと、
日本神話の【天の岩戸開け】のような事実があったのだと
頭から思い込んでおられます。
根元たる創造神の深い仕組みが解っておられないからです。
→ですから、その名乗りの御神名だけでは
神としての位たる段階が解らないのです。
大本教神諭に
【天の岩戸が開いたならば
光輝く人と
苦しみにのたうち回る気の毒な人がある】
とあるのは、
=自分の魂に汚れがあると
その光の火で自分が内部から焼かれて
のたうち回ることになってしまうからです。
→私はその天の岩戸に隠されている光を見て、
これは肉体を殺す殺人とは違いますが
魂の殺人に等しいようなことだです。
…基本的に魂は死にません。
為に死ぬほどの苦しみで
のたうちまわることになるのです。
その時間が天の岩戸を閉めない限り、
延々と続くことなります。
はっきり言えば
肉体がいたぶりにいたぶりで
殺されるよりも遙かに辛いのです。
大本教から【天の岩戸を開ける役】に【閉める役】。
【閉める役が難しい】と出されましたが、
天の岩戸を閉めることが出来なかったならば
とんでもないことになるのです。
この【閉める役】が非常に難しいのです。
ですから
簡単に天の岩戸など開けることは創造神にも出来ないのです。
この天の岩戸の光が出た時、
どれだけの人が涼しい顔をしておられるかとなった時、
これは難しいの一言です。
…その光を見た時に私が感じたのは、
この光の中で涼しい顔が出来るのは
お釈迦様ぐらいであり、
イエスでは無理だです。
・・・しかし、お釈迦様の教えは=一般的に慈悲とされ、
イエスの教えは=愛 ならばさほど違いはありません。
お釈迦様の悟りは慈悲ではなかったはず。
悪魔達がよって集ってお釈迦様の悟りをひん曲げたなのです。
そうした中で、
曹洞宗から出された小冊に
お釈迦様の菩提樹の下での悟りとは、
=「悪魔は実態を持たない表れで有り、
人に良心と呼ばれる神が内在している」
に触れて、
良心神に気がついたのが最初の気づきです。
そして、
大本教神諭予告、五六億七千万で紐解ける「九つ花」と、
朝鮮に残されていた予言、
最後の審判前に 救世の為に「米」一字の教えが出るで、
私の「米」の教えは完成して行ったのです。
私が【人に内在する良心神】を宣伝しているのは、
天の岩戸開けの時の光から少しでも助かる為です
2016・5・10
上野公園さんブログ「人に内在する良心神(神言会)」より