救世主とは
=
【九つ花】(九の数理盤)を見れば、
自分が「救世主」ですなど
あり得ないことになるのです。
良心神とは
=
何をしようが好き勝手をしようが赦す
とは真逆だからです。
=
そこに来るのは
常に「省みよ・悔い改めよ」です。
人の良心とは
=
自分が罪を犯せば、
必ず自分でその罪の償いに走るからです。
そもそも「救世主」という言葉がおかしいのです。
救世主とは
=
世の一般に思われている概念は
「世を救う」です。
←→
だが「救」の字を見ると、
=
助ける意味がどこにも出て来ないのです。
救
=
求(もとめる)・攻撃の攵(ボク)は打つ、
強いる、仕向ける に使われる部首です
字が「救世主」ならば、
=
世の中を打つ、攻撃するになるのです。
=
世の人々が何をしていても助けるとは
真逆の漢字なのです。
では、
どうして、
攻撃する。打つ。強いるの存在が
【助ける意味の救世主】
になるのでしょうか?。
最後の審判は
=
西洋では「火の審判」、
=
日本では
「真性天照皇太御神」が出て来ること
です。
私達が持っている魂の「核」は
=天帝の分魂であり
=良心神ですが、
=
各自の魂の中にある
「真性天照皇太御神」でもあるのです。
=
ですから
「ラー」は太陽神の意味があるのです。
その「天の岩戸」が開いたならば、
(真性天照皇太御神がいる
「天の岩戸」が開いたならば)
=
各自の魂の中からその「光が放射」されます。
→
その放射された光は、
=
人に食い込んでいる蛇霊を
攻撃する。打つ。強いるの働きなのです。
→
自分の中に存在する蛇霊の食い込みが少ないと、
早い段階で蛇霊達は去る(巳帰る)でしょう。
→
しかし、
自分の魂に完全に蛇霊が食い込んでいると、
それは激しい光の攻撃となり 打つ強いる なのです。
救世主とは
=
「人たる身の方ではなく」、
=
人の魂の中に存在する
「真性天照皇太御神」のことなのです。
それが「世を救う」なのです。
大本教神諭。天の岩戸が開いたならば、
=
光輝く人 と あまりの苦しみでのたうち回る人
があるなのです。
私自身も修業の中で
自分の内に「真性天照皇太御神」の存在を
霊能者共々見て来ています。
が、
その意味が完全には解っていませんでした。
【救世主】の言葉の意味
が解りましたか!
2016.5.5
神之公園さんブログ
「人に内在する良心神(神言会)』より
私の言葉で
まとめてみました。
救世主は
キリスト教で馴染みのある言葉かと思います。
神之公園さんブログでは、
救世主は
字の意味で考えると
助ける という意味がどこにも出てこない
という真逆の漢字で、
世の中を打つ、攻撃するになるそうです。
ではどうして、
攻撃する、打つ、強いるの存在が
「助ける意味の救世主」になるのでしょうか
救世主は
=
人ではなく、
=
人の魂の中に存在する
「真性天照皇太御神
(しんせいあまてらすおおみかみ)」
であり、
=
人の魂の「核」と言われる
天帝(てんてい)の分魂であり、
=
良心神のこと と言われています。
天の岩戸が開いたとき
真性天照皇太御神、
天帝の分魂、
良心神の光が放射されます
魂に蛇霊が食い込んでいると
激しい光の攻撃となり、
打つ強いるなのだそうです。
あまりの苦しみでのたうち回る人と
魂に蛇霊の食い込みが軽いと
早い段階で蛇霊は去る(巳帰る)(蛇帰る)で
光り輝く人がいる。
良心神の光に耐えられるように
あまりの苦しみにのたうち回らないために
ミカエルの巳(蛇)帰る、
つまり
魂に食い込んでいる蛇霊を天に帰すこと
だそうです。
良心神の働きを出すということは、
魂を磨く、魂の汚れを禊ぐ、という事で、
自分を助けてくれるという意味にもなる
という事だと思います。
(違う回のブログに書かれていたと記憶しています)
蛇霊を天に帰すには
3回くらいの水行が必要だそうです。
まだ、暑い日が続いています。
永遠の命を持つ魂の禊は、生きている今しかできないそうです。
一人でも多くの方が、水行を実行されますように。
長々とお読みいただき、お時間をありがとうございました。